宇宙の話

 最近、僕らは学ぶ欲求を忘れている。今の知識だけで、今の仕事をこなすことばかり考えている。人間に生まれたからには、学ぶ欲求を忘れてはいけない。そんなわけでNewtonという雑誌を買った。おもしろい、知らないことを知る喜びを思い出させてくれた。購入したNewtonは太陽系の特集をしていた。宇宙の先に何があるのか誰もが疑問に思うことかもしれないが、誰もがその結論にいたらないまま考えるのをやめる。それは、人間という次元で、考えられないことだからだ。人間は想像力という武器をもっている、想像力は人間に与えられた素晴らしい機能だ。想像は自由であり、想像をすることをやめることは、人間を捨てることにあたいするのではないだろうか。だから僕は、たまに宇宙の事を考える。答えは出なくても考える。昔、こんなことを思ったことがある。地球はある生き物の臓器の一部なのかもしれない。人間はその臓器に寄生する生物である。つまり、宇宙より大きな何かが存在するという考えである。そんなものは、僕が地球人である限り、一生見つかることは無いのだろうが、想像は自由だ。「ループ」という小説を読んだとき、素晴らしい想像だと感じた。「らせん」を見たときに、そのあまりに、非現実な内容に落胆した。非現実は完全なフィクションの世界であり、ありえない想像である。例えば、人が蘇るというのは、もう自分の中では非現実なことであり、その小説から現実の世界に結びつけることができなくなり、つまらないと感じてしまう。しかし、この「ループ」は、その非現実の世界を現実に変えた。私の中でありえることへの想像へと転換した。それは、この世の中がコンピュータの中での世界であり、その世界を管理する人がいるという内容だ。宇宙の不思議を考えると、このことも容易に飲み込めてしまう。実際、宇宙のことを考えた先には、神という、非科学的なものがでてきてしまう。では、神は誰が作ったのか。そして、思想は止まる。宇宙のことを考えると、人間はなんてちっぽけな生き物なんだろうと思う。小さなことで喧嘩したり、失恋に傷ついたり、仕事でストレスをためたり。そんな小さなことは、この宇宙のできごとの、チリにも及ばない。最近、会社でトラブル続きで、ここから抜け出したいと思ったりもした。何故、こんな細かな事を気にしているんだろう。こんなこと宇宙の出来事に比べたら大したできごとじゃないし、気にするようなことじゃない。だからと言っていいかげんな人間になれと言ってるわけではない。会社の、社会の一人として、給与をもらって働いている以上は、自分のできる最善の努力はしなくては、いけない。しかし、自分の能力以上のことをやろうとして、悩む必要はないのではないだろうか。自分の能力で解決できなければ、人の能力を借りればいいのだ。人は一人では生きてはいけないのだから。自分の中に悩みを閉じこめる必要はない。しかしながら、人間は自分という枠からでることはできない。自分が標準であり、自分の意志・思想と違うものを拒み、自分の思想を他人に植え付けたがるものである。自分は他人にはなりえない。生まれたときから自分は自分でしかない。他人の影響を受けることはもちろんあるが、それは自分が他人になることではない。だから、どんなに自分が正しいと思っていていても、他人にとっては正しくないことは、いくらでも存在する。ここで問題になるのが「標準」や「普通」という言葉である。「標準」や「普通」は誰が決めるのだろうか。大勢が納得すればソレになるのであろう。では、「大勢」の定義は何なのか。例えば、今、宇宙人が戦略してきたとしよう。その宇宙人が人間より数が多ければ、宇宙人の思想が「正しい」ということになり、その思想が「標準」や「普通」になるのだろうか。確かに、大勢の意志が統一すれば「標準」や「普通」は作られるかもしれないが、自分の中に「正しい」が生まれることは無いだろう。それは、自分は他人ではないからだ。自分がそれを「正しくない」と思う以上、ソレは「正しくない」ことなのである。だから、他人との付き合いは難しく、おもしろいのだろう。他人の気持ちが全て分かってしまったら、人生は面白くない。心が通じ合うなんてことは、思いこみに過ぎない。通じ合わないから人は引かれていくのだろう。相手の事を知りたいと思う気持ちが、人と人とを引きつける。相手の思ってることが全て分かったら、この世に生きる喜びを失うだろう。それでも、相手の事を知りたいと思う気持ちがあるから、人間は生き続けられる。昔見たドラマの中で、自分には3つある「他人が知っている自分」、「自分が知ってる自分」そして、「本当の自分」というフレーズがあった。確かに自分は自分でしかないのだから、他人の知ってる自分と自分の知ってる自分は違う。では、本当の自分は誰が知ってるのだろうか。本当の自分は自分が知るしかない。確かに、「俺ってこんなやな奴だったかなー?」とか、思う瞬間はある。こういった、生きてきての経験により、本当の自分を見つけるのは自分でしかないのです。だから、自分は自分を好きになって下さい。どんなに嫌な自分を見つけても、自分を好きでいて下さい。とりとめのない、自分と他人の話をしてしまったが、結局、人間が生きる上では、他人が必要であり、そしてまた、想像が必要なのだ。その為には、宇宙の存在がが非常に大きい。人間はいずれ死ぬ。死んだ先に何があるのかは、死んだものにしか分からないだろう。宇宙の1つの星になるというのが、本当だと断定できないし、嘘だと否定もできない。宇宙と死との関係だが、最近、太陽のスーパーフレアの記事を読んだ。もしも太陽がスーパーフレアを起こせば、その熱は「真冬を真夏に変えてしまうほど」であるほか、荷電粒子が地球の超高層大気にぶつかれば、たちまちオゾン層が消滅して、地球上の生物は数ヵ月のうちに絶滅してしまうだろうという記事である。その記事には、地球の太陽はスパーフレアを起こさないと言っていたが、宇宙で起きている全てのことを、我々には想像はできても、知ることはできない。宇宙で起きた、何かの引き金で、地球が滅びたり、人類が死滅したりすることは十分にあり得ることなのではないだろうか。だから、明日、人類が滅びましたと言われても不思議はないはずである。しかし、資源が豊富で、情報に富んでいる現代、私たちは「死」というものを意識しない毎日をおくることができている。毎日、死を意識して生きてる人は何人いるのだろうか?あれだけ、地震、地震、死亡者と言われても、いざ自分のこてで無いとピンとこない。関東に地震がくる日は近いだろう。それでも、私たちは今起きていないことに興味を抱かない。自分の身近に死を感じなければ興味を抱かない。地球にやさしい、地球環境保護などというキャッチフレーズをうたっているが、今の自分が生きてる時代さえ生きられれば良いと考える人はいくらでもいるだろう。そういう人は、宇宙のできごとを考えて、死ということを感じて欲しい。そうすれば、1日1日の大切さを感じることができ、他人の事を考えることができると思う。1日1日を大切にするということは、自分を中心に生きるということでは無いことが分かると思う。何か嫌なことや、悩みがあったら宇宙の事を考えて欲しいと思う。('99/10/1)


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