死んだ子猫の話

 その日は、いつものように残業で遅くなった。深夜0時近くの帰り道での出来事だった。終電間際の電車に揺られ、上大岡の駅についた。これから、寮までの長い帰路が始まる。いつものように、横断歩道を渡り、小さな商店街を抜けたところの橋で、それに出くわした。子猫。その子猫は眠っているかにも見えた。まだ生命を感じたのだろうか。気にしないで通り過ごそうと思うが、やはり目は子猫に向いた。暗がりであったが、それは死骸であるのが判った。恐らく車に引かれたのだろう。ねこの死骸を見るのはやな気分だった。しかし、初めて見たわけではないので、その場を通り過ごした。そして、コンビニエンスストアに入ろうとした。その瞬間、後ろから「ニャー」という鳴き声がした。その子猫は虫の息であったのだろう。最後の声だったのかもしれない。まだ助かるのかもしれない。しかし、僕は何も聞かなかったかのようにコンビニエンスストアの中に入った。コンビニエンスストアの中に入っていろいろ考えた。コンビニエンスストアをでると、子猫を見ている人たちがいた。僕は何も見なかったように寮へと向かった。僕のあの場の行動は正しいものではないということは判っている。だけど、誰かが助けるだろう。いや、もう助からないだろう。それでは誰が処理するのだろう。僕は子猫を見殺しにしたわけだ。犬猫病院はもう開いている時間ではない。いずれにせよ死を迎えるのが、あの子猫の運命なのかもしれない。それでも見殺しにしたという、僕の行動は許されるものなのだろうか。もし、あれが子猫ではなく人間の子供だったらどうなのだろうか。僕は勇敢に助けることができるのだろうか。血のでている子供を見たら、応急処置ができるとはとても思えない。119番はするかもしれない。それとも誰かが助けるだろうと思い何もしないのかもしれない。自分は弱い人間だ。あの時、僕はどういった行動をとればよかったのだろうか。いろいろ考えさせられた。翌朝、その道を通ると血糊がのこっていた。おそらくは死んだのだろう。子猫の死骸は誰がかたづけるのだろうか。親切な近所の人が埋めたのだろうか。ゴミとして回収されたのだろうか。自分が何もしなくても誰かが処理をする。そう考えて、僕は何もしない、何もできないままでいるのだった。僕は前日の「ニャー」という鳴き声を思い出した。子猫は何のために生まれてきたのだろうか。生まれることに意味なんてものはないのだろうか。それとも、生まれる意味を求めるために人は生きているのだろうか。それを考える2つの出来事が、子猫を見た数日後の休日にあった。1つは、昨年、一緒にニューヨークに観光へ行った大塚恭介の話だ。僕は、友人を通して彼と知り合った。彼は最近小さな劇団(ルート無限大)に所属した。その旗揚げ講演があった。題名は「Edge〜魔剣〜」。『魔剣』と呼ばれた刀とその主人の物語。失ったものの代償に…『刃』を手にした少年の話で、喜劇に近いがしめるところはしめていた。彼の役は悪役側の『魔剣』の役、『烈火』。ラストシーンの見せ場での登場であったので、全体的に出番は少なかったが、重要な役だ。役者一人一人が、その役になりきり、自分を出して、自分を表現している。小さな舞台であったが、その舞台を存分に使い切り、観客を飽きさせなかった。一人一人が、自分の役を楽しみ、輝いていてた。自分のやりたいことを見つけ、実現へ向けている人の眩しさを知った気がした。もう1つは、昨年度まで一緒に働いていた白石国貴の話だ。彼は僕が担当する仕事のSEをしていたのだが、昨年度、会社を辞めてデザイン系を目指した。その彼が東京ビッグサイトで行われている「デザインフェスタ」で、作品展示販売、無料似顔絵をやるということだったので足を運んだ。正直言って僕は彼をクリエイティブな仕事にあこがれる普通の人だと思っていた。しかし、ビッグサイトにいた彼はアーティストだった。無料の絵だというのに真剣に20分近くかけて似顔絵を描きあげる。そこにはお客さんの列があり、お客さんの喜ぶ笑顔があった。輝いていた。1日2万円の展示スペース料金を払い、無料で絵を提供して、自分を磨いているその姿は本当に輝いていた。展示時間が過ぎてもお客さんは並んでいた。時間となり、描かれなかったお客さんは本当に残念な顔をして彼の名刺をとった。僕は彼の絵を1枚買って、片づけを手伝った。2日間、休み時間も無く、一人で絵を描き続けたのだから、無理もない。だいぶ疲れた様子だった。しかし、何かを達成した充実をした顔であった。僕は彼をバカにしていたお詫びというわけでもないが、帰り道、「雛鮨」でお寿司をおごった。そにでは、ウニを連続して注文する同い年の青年だった。しかし、目標をもった男のすごさを思い知った気がした。この2つの話は形は違うが、僕に何かを与えた。彼らのその生き方、自分の表現方法は、僕へ刺激を与えた。僕は毎日疑問をもって自分のやりたいこととは違う仕事をこなしている。やりたいことへ向ける努力もしないで、ただひたすらと毎日を過ごしている。夢も目標も持たないでただひたすらと生きている。死に向かうために生き続けるという矛盾を感じながら生きている。そんな毎日を過ごしている僕に何かの意味を教えてくれた。勝手な解釈と言われるかもしれないが、子猫も僕に何かを教えてくれた。僕に考える時間をくれた。誰かに何かを教えるために僕らは生き続けていくのだろうか。('00/6/1)


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