20世紀の話

 今回が20世紀最後の「エッセイ」となる。20世紀という100年のうち27年を生きたわけだが、いったい僕は何を残したのだろうか。子どもの頃は21世紀なんてまだ先のことと思っていたが、気が付けばもう半月で21世紀は訪れるわけだ。考えてみれば、「21世紀」というのは呼び名が変わるだけで、別に普通にまっていればやってくるものだ。しかしながら、21世紀という節目を考えて、「僕」という個人の存在ではなく、「人」として何をしてきたのだろうか。科学の進歩により飛躍的に便利な世の中になったことは否定できない事実だと思う。人間の楽をしようという欲求は果てしないものだ。これからも「楽」から産まれる「発明」がでていくことだろう。20世紀の最大の進歩は「電気・電子・電波」だと思う。空想が現実となった。最近のDoCoMoのCMにもあるように、昔あこがれていたアニメの世界が現実に起きてきている。あの頃は携帯電話なんていうものは、夢の世界だった。今は携帯電話をもっているのがあたりまえの時代になっている。目には見えないが様々な情報が空気にのってることになる。人間への影響は少なからずあるだろう。しかし、人間は文明を止めようとはしない。最近、「車内での携帯は医療器具への影響を及ぼす可能性があるので、電源をお切り下さい。」というアナウンスをよく耳にする。今ではすいてる電車ですら携帯を切れと言ってくる。ということは町を歩いていても可能性があるわけだから、「携帯は使うな!」という話になってしまうのではないか。僕は「携帯が悪いのではなく、医療器具が悪い」と思う。携帯電話の電波に影響するような医療器具を扱ってる方に問題がありと思う。そういった医療器具をつけている人は身勝手な考えだと憤慨するかもしれないが、「止める」のではなく「できるようにする」べきなのではないだろうか。だいたい、そんな携帯の電波ごときで命に関わるのであれば、それは明らかに不良品なのではないだろうか。トラックの無線のように法外な電磁波をだしているというのであれば、それは取り締まるべきだが、法律で認められているものを扱ってる以上は、どこでどう使おうが利用者のかってだと思う。もっとも「携帯の電波で壊れる可能性があるので、医療器具を付けた人は電車には乗らないでください。」なんてことは言えないだろうが。つまりはどちらも使える環境を作らなければ本当の意味での「進歩」になっていないわけだ。携帯電話には、地下鉄では電波が入らないなど、データ伝送容量が少ないなど、まだまだ改訂の余地は残されているが、利便性を求めてさらなる進化をしていくであろう。携帯だけではなく、電化製品も様々なものが産まれた。洗濯機、冷蔵庫、掃除機、電子レンジ、エアコン、TV、ビデオ、DVD、CD、MD、そしてコンピュータ。日経のアンケートによると20世紀の発明ランク1位がコンピュータということであった。20世紀に産まれた、自動車、飛行機、ロケット、人工衛星、などの大きなモノもあるが、その実現にはコンピュータが欠かせない。コンピュータの発展により技術は格段と進歩した。会社で業務をする上でコンピュータが無くてはできない仕事が増えてきた。Word、Excel、Power Point。業務をする上で必要不可欠になりつつある。まさに、Microsoft天国。日常生活用品のごとく利用されるようになった。情報技術が進まない一つの要因にMicrosoftという独占市場があることは言うまでもない。みんなが利用する以上、一人だけ違うアプリケーションを使うという状況にはなかなかなれない。はじめは嫌でも、使っていくうちに、馴れてきて使いやすいと思いこんでしまう傾向があるのではないだろうか。本来、オープンソースにして誰でも相互互換のプログラム環境が作れなければ、真の良いモノは産まれない気がする。しかしながら、Microsoftは勝者であり、こんな意見は負け犬の遠吠え、「悔しかったら世界標準を作れ」という具合ではないだろうか。Linuxはどこまで頑張れるのだろうか。そんな中、ハード面も格段の進化していき、コンピュータがコンピュータを作る時代になってきた。最近では自立型のロボットの世界が芽生えてきている。子どもの頃、夢に見たロボット、鉄腕アトム、ドラえもん、アラレちゃんが夢ではなくなりつつある。自立型ロボットといって頭に浮かぶのはやはり「AIBO」であろう。今世紀最大の発明とはいかないものの、ロボットの可能性を示してくれた一品だと思う。普通は「人間の役に立つべくロボット」ばかり構想してしまうところだが、「役に立たなくてもいいじゃないか」という発想に結びついたところが、AIBO開発者の凄いところであり、成功の鍵であろう。ペット、すなわち「相棒」を作ったわけだ。この他、SONYは阿波踊りをするロボットも発表している。また、本田の階段を登るロボットはCMでも使われ有名である。本田のロボットは鉄腕アトムを作ることを目指して作成したそうだ。これらは21世紀の可能性を見せる初期発明と言えるだろう。発明といった点では、原子力、水道、あるいはインスタントラーメンなんて意見もあるだろう。「20世紀は発明の世紀であった」と言えるのではないだろうか。今年の流行語大賞でもあるIT革命の火付け役となったのが言わずと知れた「インターネット」だ。ここ数年で飛躍的にのびたインターネットは、21世紀になくてはならない技術であろう。電気の無い生活が想像できないように、いずれインターネットの無い世界が想像できない時代がやってくる。最近でもフレッツISDN、CATV、ADSLと常時接続の環境が、コンシュマーに広がってきた。電話線の引かれていない家庭が無いように、インターネットが常時接続されていない家庭も無くなっていくのであろう。また、接続速度も格段に上がっていくことであろう。そうなるとコンシュマーの要求は次々と上がっていく。インターネット上の膨大なコンテンツを期待するようになる。TVゲームの世界で言うと、「スーパーマリオ」は爆発的に売れた。今、スーパーマリオのようなゲームをユーザに提供しても売れないだろう。今は「バイオハザード」のような技術をふんだんに使ったものを期待している。しかし、そういったゲームを作るには時間が非常にかかる。TVゲーム業界そうであるように、インターネットの世界でもユーザは簡単なコンテンツを期待しないだろう。期待が技術を発展させるのは良い傾向であるが、過度な期待が技術を止めるのは良くないことだと思う。話は変わるが20世紀を代表する人物として誰がうかぶだろうか?100人の20世紀という番組がテレビ朝日でやっている。アインシュタイン、美空ひばり、マリリンモンロー、手塚治虫、ヒトラー、力道山、ブルースリー、湯川 秀樹、ジョンレノン、夏目漱石、チャップリン、野口 英世、エジソンなどなど、様々な人がいると思うが、20世紀に死去された方が、代表かというとそうとは思わない。巨人の長島監督は明らかに20世紀のスターであった。僕が一番に上げたいのは「銀さん」だ。あと半月で20世紀という100年を生きて、3世紀目に突入しようとしている。「金さん」が他界してしまったのは非常に残念なことだが、20世紀を全て生きた有名人といったら銀さんだけであろう。この前、TBSのカウントダウンTVの後にやっている番組で「20世紀を代表する人物」のアンケートをしていたが、その全ての答えが間の抜けたものばかりで閉口であった。最もインタビューの対象が若者ばかりであったのでしかたないのだろうが。「宇多田ヒカル」・・・それが100年ある20世紀を代表する人なのか?それは「世紀末を代表する歌手」なのではないだろうか?20世紀の代表についていくつか述べる。漫画「ドラえもん」「サザエさん」、TVゲーム「スーパーマリオ」「ドラクエIII」、ドラマ「もう誰も愛さない」「あなただけ見えない」。ドラマに関して言えば、僕もTBSの若者と変わらない意見だ。100年ある中のドラマだから、「探偵物語」「スクールウォーズ」「おしん」とか言われるよな・・・。話はまた変わるが、サンフランシスコの調査によると、「ゲームの女性キャラクターについては誇張された描写が多く、38%は胸が大きく、46%は異常なほどウェストが細く表現されている。」とのことで、ゲームのネガティブな女性イメージは、少年少女に悪影響を与えると懸念を示したそうだ。僕に言わせてもらえば、この調査団はアホだ。どーして、こー、「マンガが悪いとかゲームが悪い」とかいう結論に達するのだろうか。非現実だからこそ、マンガ、ゲームの意味があるのではないだろうか?「平凡な女のキャラクターが日常生活を過ごすゲーム」何のイベントも無し、それはゲームとして成り立つのだろうか?マンガを真似た犯罪なんてものが現実にあるようだが、マンガが悪いのではなく、マンガをマネする人が悪いのではないだろうか。マンガやゲームは想像力の産物であり、それを否定したら「表現の自由」なんてものは無い。「人の感性を見られる」ということは、生きていく上での喜びであると思う。どこかの国でも、ピカチュー放映禁止なんてことがあった。こどもがパワー信じて、ビルから飛び降りる事件が相次いだそうだ。それはピカチューが問題ではなく(フラッシュは問題だったが・・・)「フィクション」が何なのかを教育しない社会に問題があるのではないだろうか。話がずれてしまったので、戻す。冒頭でも述べたが、あと半月で21世紀がやってくる。今世紀最後のアイドル「高橋由美子」はフライングであったとして、今、何かをやれば、何でも「今世紀最後」となるわけだ。馬鹿げた話だが、人は節目というものに何かをしたがる。僕は人生の中の節目と感じる歳がある。12歳、15歳、18歳、20歳、22歳、24歳、27歳、30歳。ようするに、小学校卒、中学校卒、高校卒、成人式、大学卒といったところだが。24歳は僕に限って言えば「大学院卒、入社」である。現在、27歳であるが。ぼくの中の27歳は「いい大人」であった。実際なってみると何も変わってないが、僕の中では27歳は「自分の行き方(目標)をしっかり持っている歳」でなければいけない。そして30歳には「その目標に向かって1歩を踏み始める歳」なのである。今ははっきり言って、そういった将来ビジョンをもってない。僕が想像する大人とは外れてしまったわけだ。先ほど言ったように人は節目を意識するが、その節目になる前も意識する。つまり、「その歳になる前に何かをしよう」と思うわけだ。17歳の少年犯罪が増えているのがその例だと思う。浦沢直樹が描いている「20世紀少年」というマンガでは、あと半月で地球は消える。「今世紀が最後」なわけだ。あと半月の命と言われて自分は何が出来るのだろうか。守るべく家族もいないし、ただ漠然と残りの15日を過ごして最後の後悔するような気がする。人生には多くの選択がある。入学や入社、恋愛や結婚などなど、様々な決断を要する。悩みに悩んでだした決断もあれば、簡単な気持ちで選んだ決断もあるだろう。その選択を違うモノにしていたら、人生は大きく変わっていたかもしれない。人間は後悔をする。その後悔は自分の選んだ選択が「悪い方向に進んだ」と感じたときに起きる。しかし、僕はこう思うようにしている。「自分の選んだ選択は常に正しい」。もし、ああしていれば良かったなんてことは無い。ああしていたら、今より悪い方向に進んでいたんだ。人生において選択の時点に戻ることはできない。それならば、そう思った方が人生は楽しい。あと、15日の間に何か大きなことをやるべきか否か。そんなことは大きな問題じゃないんだ。自分を信じて、自分の選択した道を歩む。それが僕の行き方。21世紀も変わらず、そうして生きていく。ただ、今世紀中に何か「21世紀に向けた何か大きな目標(夢)」を持ちたいとは思う。夢を信じて生きていけたら素晴らしい。これが今世紀最後のエッセイとなるわけだが、最後にひとこと言っておく。「コマネチ」('00/12/15)。


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