22世紀の話

 21世紀に入ってはや半月。何も変わらない毎日が怖い。ノストラダムスの予言も外れ平和な毎日が続いている。ノストラダムス研究家の中には2年づれて2001年、すなわち今年、恐怖の大王が降ってくると言う人もいるようだが、そんな前兆もなく、毎日が過ぎている。前回エッセイで「22世紀まで生きる」なんて冗談を言ったが、22世紀まであと100年。いったい22世紀はどんな世界になっているのだろうか?今回はそんな想像をエッセイにしたいと思う。22世紀と言って真っ先に浮かぶのがドラえもんだ。一口に22世紀と言っても2101年〜2200年まであるわけだから、今から早くて100年後、遅くとも199年後にはドラえもんが登場するということになるのだろうか?200年の時間があればゼロから産まれるものも登場するだろう。今の僕らにはとても想像のつかない技術が産まれているかもしれない。想像のつかない技術は想像がつくわけがないので、おいといて、想像のつく範囲で考えてみよう。さきほど述べたドラえもんのいわゆる秘密道具だが、いくつか実現するかもしれない。「もしもボックス」はまず無理だろうけど、空気に絵を描くクレヨンなんかは登場するのではないだろうか。個人的には「どこでもドア」に登場して戴きたい。仕事に追われ、たまに取れた休日に旅行へ行くと、新幹線や飛行機に乗っている時間が非常にもったいなく感じる。特に海外旅行に行くときの移動時間がとてももったいない。いろんな国の文化を学ぶには現地に行くのが一番良いが、それを実現するには非常に多くの時間とお金が必要になる。そんな時間的、空間的問題を解決してくれる「どこでもドア」の登場が非常に望まれる。「どこでもドア」があれば、朝の通勤時間もいらない。電車もいらなくなる。鉄道関係や旅行関係で働いている人からは「ふざけるな」と言われるかもしれないが、技術の進歩によって失う職業が産まれるのはしかたのないことではないだろうか。電車の線路が無くなれば使用できる土地が増えるわけだ。土地といえば「電柱」という物はなんとかならないものだろうか。運転に非常に邪魔じゃないか。今の技術があれば電柱なんて無くせるのだが、それを進めることができない。政府に問題があると思う。IT、ITとうたって膨大な費用を使っているが、そんなことより先に整理すべき問題が山ほどあると思う。ITというのは、Infomation Technologyであり、一技術でしかない。その技術を使う人がいなくては意味をなさないものである。確かに意識改革は必要であるが、今のインターフェースは技術者向けであり、ビデオ予約もままならない一般の人たちがパソコンを利用してITを使うというのは難しい。スイッチ1つで瞬時に立ち上がり、ボタン2つくらいで切り替えられるような簡単な仕組みを作らなければ、家電のようにITを扱うことはできないのではないだろうか。そういった基盤が整っていない中、国民の血税を投資するから、国民は不信感に襲われるわけだ。国民が望むのは安心して暮らせる社会であって、情報技術に支配された国ではないと思う。政府が進めるべくITは、あくまでも、国民のための技術でなくてはならない。ナニワ金融道の作者青木雄の著書に「女性が安心して子供が産める社会でなくてはいけない」という一節がありますが、今の日本はとてもそういった状態ではない。「子供がたくさん欲しい」という気持ちがあっても経済的に不安があり産めない状態であり、一人っ子が増えている。「資本主義なんだから、子供を産みたければ稼げ」というのも筋かもしれないが、それが良い社会とは決して思えない。また最近、「介護に疲れて殺人」などということをよく聞くが、これは国に問題があるのではないか?殺人に至る前に国が何かをしなくてはいけないのではないだろうか。話がそれてしまったついでに、ひとこと言いたい。本来であれば今日は「成人式」。不思議なことに月曜日なのにハッピーマンデーで1週間前の8日になる。15日の月曜日はハッピーじゃないのか?とそんなくだらないことを言いたいのではなく、成人の日は晴れ着の女性が沢山いた。「私は二十歳よ。」と主張するかのごとく沢山いた。あの白いフワフワのマフラーはいったいいつから使われたのだろうか?とそんなくだらないことを言いたいのではなく、成人式会場での態度である。ニュースでやっていたがあれはひどすぎる。祝辞を読んでいる中、帰れコール、あげくの果てにはクラッカーをならす。あくまでも一部の成人ではあるが、あんな人たちを成人として認めないで欲しい。こんなことに腹をたてるのはオッサンな証拠かもしれないが、これに無関心になるくらいならオッサンでも良い。社会にいる以上はルールがあり、マナーがある。確かにそのルールやマナーを良い方向に改善すべく様うち砕くのは大切かもしれないが、あれは改善ではなく、「悪ふざけが過ぎる」といった態度でしかない。正月にやっていた「世にも奇妙な物語」で「大人免許」という話があった。それは、大人としての自覚がないものには免許を与えないと言った話だった。まさに彼らには免許を与えないで欲しい。成人として新たな気持ちで頑張ろうとしている人たちも必ずいると思うが、一部の人の態度で式をめちゃくちゃにされたのでは、たまらないと思う。とこれを書いている時は告訴されていなかったのだが、どうやら告訴されたらしい。投書やE-mailで僕のように腹を立てて抗議をした人がたくさんいたそうだ。日本もすてたもんじゃないかもと思った。思いっきり話がずれたので戻す。先ほど「もしもボックス」の話をした際に述べた「まず無理だろう」という固定観念が技術の進歩を遅らせている要因かもしれない。「無理」というのは自分の頭の中に狭いフィールドを作ってしまい、その中で解決をしようとする上での答えだと思う。どんな「無理」でも信じて進める態度が新しい発見を生み出すものだろう。で、始めに「22世紀を想像する」と言っているのに全く想像していないエッセイになってしまったので、最後に記しておく。重要なのは21世紀だと思う。21世紀が良い方向に進めば22世紀も良い方向に進むし、21世紀が悪い方向に進めば22世紀も悪い方向に進むと思う。今は22世紀への傾きを決める重要な時期なのではないだろうか。たとえ1度でも悪い方向に進んでいれば22世紀はかなり悪い世の中になってしまうだろう。しかし、1度でも良い方向にすすめば、ITうんぬんというより、国民が暮らしやすい世の中になっているだろう。1度でも良い方向に進むよう僕らは努力する必要があるのではないだろうか('01/01/15)。


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