サトラレの話

 いつの日から雑念というものが生まれたのだろう。子供の頃から迷うことはあったかもしれない。それは小さな迷い。ショートケーキにするか、それともシュークリームにするかというような小さな迷い。これを選んだら悪い方向になるとか、ぜったい裏があるなんてことは子供の頃は思わなかったと思う。今は何かと疑うことを覚えてしまった。いつの日から嘘をつくことを覚えたのだろう。子供の頃から嘘はついていたと思う。それは親に叱られたくないとか、先生に怒られたくないということから生まれた嘘をつくのが悪いと感じていても出てしまった嘘。今は日常的に嘘でかためられている。自分の思っていることと違うのに流され続ける嘘。自分の気持ちとは違うのに愛想笑いをする嘘。嘘というと大げさかもしれないが、自分へ嘘をついて生きている。いつの日から人の気持ちを知りたいという欲求が生まれたのだろうか。人は「欲求」と「理性」のバランスを保って生きている。そのバランスに左右され犯罪が生まれたり、無気力な人間が生まれたりする。知りたいという欲求は人が恋をした時に生まれるのかもしれない。もし好きな人が考えていることが分かったら、その人に好かれるようにすることができると思うのかもしれない。しかし、本当にその人の思っていることを全て知ってしまった時、その人を好きでい続けることはできるのだろうか。そんな疑問を抱かせたのが映画「サトラレ」だった。タイトルからして意味不明。しかも邦画となればどうせつまらないだろうという概念が先行してしまう。見るにいたったきっかけは、同期がDVD発売記念の試写会に行って感動したということを聞いたから。人は人から聞いたことを自分も思うのか確かめてみたくなるものである。行列のできる店に並びたくなる真理はここから来るのだろう。自分が確かめて「おまえ、あんなんで感動したのかよ。」とか「俺も感動したよ、紹介してくれてありがとう。」といった会話を展開するものである。すなわち可であろうと、否であろうとなんらかのコミュニケーションを生むことができる。人はそのコミュニケーションが生まれることを望む。『サトラレ』について最近ではドラマでもやっているので知っている人が多いと思うが、知らない人のために説明しておく。「サトラレ」とは、心の中で思ったことが脳から思念波として漏れだし、他人につつぬけになってしまうという奇病を抱えた人のこと。里美健一、医者、25歳。幼い頃両親を飛行機事故で亡くし、祖母と二人暮し。普通の街で普通に暮らす彼だが、そんな彼には、たった一つだけ秘密があった。それは「サトラレ」であること...。しかし健一は自分が「サトラレ」であることを知らない。「サトラレ」自らが「サトラレ」であることを知れば自殺しかねないとの理由で、国は特能保全委員会を組織、「サトラレ保護法」を制定してこの国家的財産の知能の持ち主達を保護している。周りに生活する彼らのどんな「心の声」が聞こえても、聞こえないフリをしなければいけない。そんな内容の日常的にはありえないフィクションだ。しかしながらこの映画を見た人は必ず1つの仮説を唱える。それは「もし、私がサトラレだったなら」という仮説。欲求の無い大人なんてありえない。その欲求を思うことすら許されないとしたら自分はどうなってしまうのだろうか。サトラレには嘘は許されない。たとえ嘘をついても知られてしまうからだ。無論、映画のサトラレが嘘をつかないかと言うと、そんなことは無い。しかし、彼の嘘は子供のような無邪気な嘘。悪意が無い。愛想笑いやお世辞で固められたこの世界の中、嘘をつかずに人は生きていけるのだろうか。ドラマのサトラレはエンターテイメントを意識してか、邪念の思想がところどころで現れる。しかしながら、どちらのサトラレも純粋に生きている。僕の中で『純粋』な気持ちというのは、いつの日か消えてしまった。『素直』な心はいつの日か『ひねくれた思想』に変わっていた。もし、僕がサトラレだったらみんなに嫌がられる人間になり、もし自分がサトラレだと知ったら、自分の気持ちを隠そう隠そうとしても、その隠そうとしている思想が聞かれていることに気づきやはり死ぬことを選ぶであろう。例えばちょっと胸元が開いてる女性がいたら「お、(以下自粛)」、ちょっとスカートの短い女性がいたら「お、(以下自粛)」と男なら誰しも思うものなのではないだろうか。また、嫌な上司がいたら「うっせーなこのハゲ、何言ってんだかわかんねーんだよ、はよリストラされろ!」とか思っても口には出さないだろう。そんな口には出せない思いが人に知られてしまう。それは怖いことであり、生きがたい屈辱となるだろう。もし、自分の彼氏が、彼女がサトラレだったら。さきほども言ったが、好きな人の気持ちを知りたいと思うのが人だ。しかし、それはありえないことだから思えること。好きな人の気持ちが全て聞こえてしまったら、その人と付き合い続けることはできるだろうか。プライバシーは無い。自分がその人にしたことについても他人に知られることになる。「昨晩は凄かった」とか聞かれてしまうわけだ。人間はプライベートという空間があるからこそ生きていけるのではないだろうか。自分の思っていることを聞かれることは無い。だから人は思想を続け想像により創造を生み出すことができるのだと思う。さて、映画のサトラレ(恐らくドラマのサトラレも母親にすると思われる)だが、祖母の手術を行うことになる。医者という職業はある種、嘘をつかないとなりたたないのではないだろうか。つまり、癌告知のことだ。末期癌の患者に癌だということを悟られてしまうわけだ。余命いくばくも無いと分かった人は思考が錯乱するだろう。ある人は暴力をふるい、ある人は生きる気力を失う。ある意味、医者には嘘をつく義務があると思う。同じようにはっきり言わないことで成立している社会はあると思う。全ての人が正直であり、純情であり、誠意があり、それを受け止められる器があるのであれば問題はないのかもしれないが、全ての人がそうではない世の中で、本当のことを伝えることだけが正義とはいえないのではないだろうか。よく言う言葉だが「ついて良い嘘と、ついてはいけない嘘がある」。そんなことを言うと「小さな嘘も、大きな嘘も、嘘は嘘、みんな一緒だ」と言われてしまうかもしれないが、僕はそれでよいと思う。「嘘つきは泥棒のはじまり」「嘘をついたら地獄におちる」「嘘ついたら針1000本飲ます」これらみんな嘘なんだから(笑)('02/9/1)。


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