ノーベル賞の話

 スウェーデンの王立科学アカデミーは九日、二○○二年のノーベル化学賞を島津製作所(京都市)分析計測事業部のライフサイエンス研究所主任、田中耕一氏(43)とジョン・フェン米バージニア・コモンウエルス大教授(85)、スイス連邦工科大のクルト・ビュートリッヒ教授(64)の三人に授与すると発表した。授賞理由は「生体高分子の同定と構造解析のための方法の開発」したことである。三氏は生物の体をつくるタンパク質分子がどんな形をしているかを解析する技術を開発した。新薬の開発やがんの早期診断に道を開いた。この技術を導入した質量分析装置がすでに実用化され、がんの診断など医療面で活用されていることも高く評価された。とても有名なニュースなので知らない人はいないだろう。このニュースで一番驚くことは田中氏が主任であること。他の2名は大学教授であるが、田中氏は係長より下のクラスとなる主任という立場にある。43歳で主任と言うことは明らかに出世コースから外れた人なのだろう。しかし、43歳でノーベル賞受賞者というのはかなり若い受賞者となる。島津製作所法務知的財産部によると、田中氏の開発した「マトリックス支援レーザー脱離イオン化法の技術」は一九八五年、上司だった吉田多見男氏(現・基盤技術研究所長)と連名で国内で特許出願し、九三年に登録された。同社は出願時に五千円、登録時に五千円の特許補償金を二人に支払った。計一万円は二人に対してで、田中さん個人への支払いではなかった。分配の割合は分からないという。つまり会社が払った特許料は一万円以下なのである。それに対して、ノーベル賞の賞金一千万クローナ(約一億三千万円)はクルト教授に半分、田中氏とフェン教授に四分の一ずつ贈られる。つまり田中氏には三千二百五十万円の賞金を受けることになる。また、田中氏が受賞されることにより、10日の東京株式市場で島津製作所の株価が急騰した。前日年初来安値を更新したが、買い注文が殺到し、終値は前日比31円高の292円となった。時価総額で80億円強の効果を生み出したことになる。人生大逆転というのか、なるべくしてなったのか。いずれにせよ田中氏は人生の転換期を迎えたことになる。ここでノーベル賞とは何かを考えよう。ノーベル賞を作ったのは言わずと知れたアルフレッド・ベルンハルト・ノーベル氏である。一八六四年にノーベルイグナイターといわれる起爆装置を発明し、一八六六年に珪藻土にニトログリセリンを染み込ませることで、安全に取り扱えるダイナマイトを発明した。そしてイギリスやアメリカでこの特許を取った。このダイナマイトの発明でアルフレッドは財を成した。他にもロシアのバクーにも彼の油田があり、そちらからも大きな収入があって彼は、莫大な財産を築き、一八九六年の十二月十日に亡くなった。そして遺言で、ノーベル賞を設け、化学、物理、生理・医学、文学、平和という分野の中で優れた人々に賞を与えるように指示した。なお、経済学賞は、アルフレッドに敬意を示すことで一九六九年に設けられたものである。アルフレッドは、平和を望んでいたが、それは、冷戦時の核抑止力のような考えだった。つまり「ダイナマイトのような恐ろしいものを持てば、お互いが恐ろしい結果を生むだけなので、平和になるであろう」というものだ。実際、彼の生きている間にダイナマイトは、軍事に使われることはなく、鉄道のトンネルを掘るとか、鉱山を開発するといった産業に貢献する形で使われた(大阪市立科学館参照)。つまり、ノーベル賞の根底は「平和」にある。世のため人のためになる研究こそ賞されるものなのだ。「平和」とは人々が安心して暮らせる状態である。医学分野で完治させることができればノーベル賞が確実にとれるといわれる3つの症状がある。それは「がん」と「水虫」と「はげ」だ。その中でも最も死に近いものが「がん」。人々の平和を奪うもの。そういった意味でも田中氏の研究は大きな平和への一歩となったことが賞されたわけだ。さて、「平和」そのものを表すノーベル平和賞の今年の受賞者は誰だろう。ノルウェーのノーベル賞委員会は11日、2002年のノーベル平和賞をジミー・カーター元米国大統領(78)に贈ると発表した。オスロのノーベル研究所で行われた記者会見で、グンナール・ベルゲ委員長は授賞理由として、「カーター氏は国際法に基づき、人権と経済発展に配慮した協調と国際協力で紛争を解決すべきだとの信念を貫いてきた」と紹介した。声明を読み進める中でベルゲ委員長は、「国際法」と「協調と国際協力」の部分に一段と力を込め、対イラク強硬姿勢を深めるブッシュ政権の外交方針を言外に非難した。同委員会はそのうえで「(同氏への)授賞は現在の米政権への批判と解釈されるべきだ」とする異例のコメントを発表した。実際、ブッシュ大統領とブレア首相は2002年度のノーベル平和賞に推薦されていた。しかしながら、武力行使を選択するものにノーベルが賞を与えることを望むだろうか。テロと闘うという姿勢は賞されるものかもしれないが、その姿勢は明らかに戦争を望んでいるとしか思えない。米国では大統領支持率が下がると戦争を行うというスタイルがあるように思える。米国民は戦争をすることにより国民性を発揮し、大統領支持を高める。人には悪い人もいれば良い人もいるということを忘れてはいけない。とかく戦争になると国と国との闘いとなってしまい、良い人も悪い人もなくなってしまう傾向がある。つまり、アフガニスタン人=悪、アメリカ人=正義という公式を植え付けるわけだ。アフガニスタンへの誤爆も正当化する。考えて欲しい、罪もない人が一部の罪のある人のために殺されるわけだ。ここで発生するのは日本の「敵討ち」の考えだ。父の敵を子が討つ。その敵の子がまた敵を討つ。これが繰り返され「敵討ち」はいつまでも無くならない。アフガニスタン(と断定できたわけでもないのだが)の悪人が罪のない米国民の命を大量に奪った。その敵を討つために米国民は立ち上がった。米国民は誤爆により罪のないアフガニスタン人の命を大量に奪った。その罪のないアフガニスタン人の遺族はアメリカ人に敵意を感じ、いつか敵をうつべく罪のないアメリカ人の命を奪うだろう。ブッシュ大統領は「これは戦争ではない、テロとの闘いだ」と言うが、その闘いが悪意を育んでしまっているのではないだろうか。その過ちがまたイラクで起きようとしている。湾岸戦争を思い出して欲しい。サダム・フセイン。戦争に負けたフセインがなぜいつまでもイラク大統領を続けているのだろうか。戦争犯罪で殺そうと思えば殺せるのに、なぜ生かしているのか。ある説では「フセインはアメリカのスパイである」というものすらある。つまり、フセインはブッシュに雇われておりいつでも戦争を行い支持率を上げる体制を整えているというものである。まー、それは言い過ぎにしてもアメリカは、「世界で一番の国」という考えがあるのは事実だろう。世界の警察はアメリカにしかできないと言い、さまざまな国にアメリカの基地を作る。果たしてそのようなことがあるのだろうか。国には国のルールがあり、他の国では想像もつかないような慣習があるわけだ。それをアメリカ=正義の観念から、他の国に植え付けようとするのは思い上がりではないだろうか。日本に至ってはアメリカ=正義の観念が既に植え付けられており、「古き良き日本」は悪とされつつある。会社は個人主義になりつつあり、資格、点数で人を評価し、年棒制の導入にまで踏み込んでいる。アメリカのように「評価のできる上司」というものが存在するのであれば、それは成り立つのかもしれないが、ぼんくら上司に何が評価できるのだろうか。結局のところ数字でしか評価ができず、本質をつかめなくなる。資格を沢山もっている奴、TOEICのスコアが高い奴、それが「できる社員」だと思うしかない。上司より遠い位置にある人事部はなおさらであり、全ての社員を観ることなどできないのだから、点数で評価をするしかない。だから上司のアドバイスも仕事のことではなく「資格を取れ、TOEICのスコアを上げろ」になる。個人能力主義となる。「資格をもっているやつ」=仕事能力のある奴の公式がなりたつならそれもいいだろう。しかし、現実の社会では応用力が無ければ意味がない。暗記力が強くて、資格を沢山もっていてもその資格を役立たせる能力がないのならば、果たして会社にとって必要な人間と言えるのだろうか。人には得手不得手がある。その不得手を別の人の得手で補う。それが日本のスタイルであり協調性だと思う。日本のスタイルが好きだ。みんなで協力をして何かを生み出そうとする日本のスタイルが好きだ。今は隣の奴は敵だと思えの個人能力主義、個人が全てをできなければいけない社会になりつつある。そんな社会に魅力を感じない。そんな社会が日本の発展を阻止しているように思える。人間は一人では何もできない。それが日本の考えであり、日本というものを作ってきたものと信じている。無理に導入しているアメリカンスタイルが田中氏のような逸材を見抜くことができない社会を生み出したのではないだろうか。田中氏は日の目を見ることができたわけだが、ノーベル賞にあたいするが、アメリカのスタイルに埋もれてしまっている日本人がいるのではないだろうかと思う。そんな中、矢部太郎がノーベル賞を取る日は近いのかもしれない('02/10/15)。


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