傘くらいの話

 梅雨が始まりました。毎日毎日、雨で憂鬱になります。憂鬱になる原因のひとつが『傘』です。傘はやはり大きくて丈夫でかつ軽いものがよいと思います。そうするとやはり数千円する傘となります。数千円がいきなり無くなる可能性がこの時期、とても多くなるということが憂鬱の種です。内部告発のような話で嫌なのですが、うちの会社で傘をなくしたことが少なくとも5回はあります。ビニール傘など見分けがつかないような代物ではありません。普通の傘が頻繁に無くなるのです。それなりの給料をもらっている人が、なぜ傘泥棒などというセコイ行為にいたってしまうのか謎でした。これはあくまでも僕の想像でしかありませんが、そういう人は「くらい」の理論が働くのではないでしょうか?「傘くらい、後で返せばいいから借りていっちゃえ」「傘くらい別に借りっぱなしでもいいよな」というように「くらい」という言葉を使い自分を正当化しているのではないでしょうか。人の傘を盗めば当然犯罪です。この犯罪行為をなんとも思わなくなるのは危険なことです。僕の会社でなくなるものは傘だけではありませんでした。友達が香港土産ということで買ってきたお土産を僕が休みの時に机に置いたらしいのですが、僕が出社したときには影も形もありませんでした。また、僕が休出した時に、その友達の机に北海道の出張土産を置いておいたのですが、これもなくなりました。とても嫌な思いをしました。こういうことが起きてしまった時、職場の人を疑ってしまう気持ちになることがとても嫌でした。しかし、先日、会社でとても嫌な光景を見てしまいました。同じ部の人が出張へ行き、お土産のお菓子を各人の机の上に配りました。同じ部の課長の机にも配って置いたのですが、丁度その日は出張に出ており、お土産のお菓子はそのまま机に置かれていました。そこへ、他の部の課長がきて「○○課長はいないのかー」と言い、うちの課長の机の上に座りました。そして、次の瞬間、そこの机にあるお菓子の袋を開け、おもむろに食べ始めました。僕はその光景に目を疑いました。そこにあるのは人のお菓子です。しかも、お土産に配られたお菓子ですから、配った人が言わなければ、お土産が配られたという事実すらうちの課長は気づかないことになるのです。ましてや隣の部下がそのお菓子を食べて、お土産を買った人にお礼をしている光景をこの課長が見たとしたら「なぜ、俺には配らなかったんだろう」といういらぬ心配、あるいは妬みをもってしまうかもしれないわけです。そのお菓子を食べた課長から見たら、まさにお菓子「くらい」といった考えだったのでしょう。「お菓子くらい返せばいいや。」「お菓子くらい食べちゃったことは言わなくてもいいだろ。」といった考えです。こうして「くらい」で解決して何もなかったことのように平然といられるのです。僕にはともて信じられません。人の机にあるものを食べること自体、考えられません。これは立派な犯罪です。僕はそのお菓子を食べている課長に注意をしようと何度も思いましたが、情けないことに「関わりたくない」という気持ちが強く働いてしまい注意をすることはできませんでした。ここで「くらい」を正当化する人たちは「食われたくないなら机の上に置くな」という「だまされた方が悪いんだ」理論をもってくることでしょう。傘だって「盗まれたくなければ傘たてに置かないで自分の机のそばに置いとけ」といった「人を見たら泥棒だと思え」理論をもってくるでしょう。しかし、そんな信頼関係ではなくて、疑いの眼で結ばれた職場で働きたいと思いますか。人を信じることができない社会を肯定することはできません。話を大きくすると「核ミサイルを全ての国がもつ」というのと同じことです。核ミサイルで攻撃をされる可能性がある限り、核ミサイルを持たざるを得ない。「撃って来たら撃ち返すから撃たせない。」ということです。全ての人を信じずにいては、いつまでたっても根本的な解決には向かないでしょう。傘に警報装置でもつけて傘を盗んだやつを撃退する装置でも着けなくてはいけない社会に住みたいと思いますか。「犯罪は起きるものです」ということを前提に「隣の人も犯罪者」「手前の人も犯罪者」「家族だって犯罪者」と思って生活をしたいですか。僕はそんな中には住みたくありません。だいぶ以前の話ですが、実家の近くのローソンへ行った時の話です。その日はけっこう強い雨が降っていたので、安い傘ではなく大きくて高めの傘をさしていました。ローソンで買い物をした一瞬のできごとでした。店を出て傘たてを見ると、僕の傘は見当たりません。似ている傘が置き忘れているということも無く、間違ってもっていったとは思えません。どうすることもできず、大雨の中、走ってずぶ濡れになって実家に戻りました。傘たてには数本の傘がありました。僕は誰かが間違って持っていったのだから、その中の1本をさして帰ればよかったのでしょうか。実際にこういう人は多いのではないでしょうか。「自分が盗まれたんだから、他人のを盗んでもよい」という恐ろしい理論です。その他人というのは盗んだ人と無関係ではないですか。そんな身勝手な考えが犯罪を広げていくのではないでしょうか。ローソンで無くした傘は手元の戻ることは絶対に無いでしょう。今日、偶然というか梅雨の季節だったからだと思いますが、サザエさんのアニメでマス夫さんが電車の中に傘を忘れないように心がけて、鞄をわすれかけるという話がありました。そして、サザエさんはマス夫さんに傘「くらい」いいじゃないと言った話をすると、「君からプレゼントされた大事な傘なんだぞ」といった話をして、サザエさんがご機嫌になるという話です。僕も父から借りた傘を電車に忘れてしまい、忘れ物センターまで取りに行った苦い経験があります。「傘くらい」で諦めてしまう人も多いかもしれませんが、父が大事にしていた傘でしたので無くした時は不安との闘いでした。今日も弟から借りた傘を危うく電車の中に置き忘れてしまうところでした。危機一髪、ドアがしまる瞬間に傘を取ることができました。このように他の人にとっては「ただの傘」「傘くらい」かもしれませんが、たとえ安い傘であってもその持ち主にとっては思い出のつまったものかもしれませんし。大事なものかもしれないわけです。ここでも「そんなに大事なら名前と住所を書いておけ」とか言う人がいるでしょう。この日本という国は、そこまで疑って生活をしていかなければならない国なのでしょうか。一部の心無い人のために全ての人を疑わなければいけない社会。「お菓子くらい」「傘くらい」「自転車くらい」「お金くらい」「殺人くらい」「戦争くらい」「くらい」のエスカレーションが進み犯罪大国日本になる日は近いのでしょうか。小さな犯罪が大きな犯罪を生みます。今回、トルコで私が実際に体験した犯罪について書こうと思ったのですが、6月15日現在、解決していないので、載せることはできませんでした。今まで30年近く生きてきて、一番嫌な思いをしています。基本はひとつです『自分がやられて嫌だと思うことは他人にするな!』です。傘を盗んだ人は少なからず悪いことをしているという自覚があったはずです。悪いことをしているということを知っていて犯すことは、当然良くないことですが、悪いとことを悪いとも思わず犯すことの方がよっぽど怖いです。そういう人には本当に再教育が必要だと思いますが、少しでも悪いと思う気持ちがある人は、これを読んだら絶対、同じことを繰り返さないで下さい。その悪いと思う気持ちを育てて下さい。それがあなたが人であり、人の社会で活きている自覚です。「犯罪に小さいも大きいも無い」なんてドラマのようなセリフはいいません。実際、大きいと小さいはあると思います。しかし、小さな犯罪であっても犯罪であることに変わりはないということを判って下さい。自分の行為で、誰かが嫌な思いをしているのだということに気づいて下さい。そして、自分の行為が全ての人を疑う社会を作ってしまていることに気づいて下さい。犯罪大国日本にならないことを切に願います('03/6/15)。


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