叔父さんの話

 1月27日のできごとだった。弟から会社の携帯電話にコールがあった。既に嫌な予感はしていた。弟からメールではなく、直接電話がくるのは、叔父のことしか考えられなかった。話を聞くとやはり、そのことだった。その時、叔父は入院をしており、医者が見離すような状態だった。以前も弟から携帯のコールがあったが、その時は何事もなかった。僕はまたその時と同じであることを祈ったが、個人の携帯電話を見ると父からのメールが入っていた。その内容はモルヒネを投与したというものだった。16時半にメールがきていたのだが、19:30過ぎに弟から電話が来るまで全く気づかなかった。以前とは違い、今回はもう最後かもしれない。僕は会社を出て、そのまま病院に向かった。会社を出て15分後、弟からのメールで叔父が亡くなったことを知った。叔父の最後に間に合わなかった。父からのメールがあった時に早退してでも駆けつけるべきだった。間に合わなかったことを知ったが、病院へ向かった。伊勢原の病院についた時には既に霊安室に運ばれていた。扉の前には親戚が集まっており、悲しみに包まれていた。霊安室の中には担架に永眠している叔父の上にシーツがかぶさっていた。病気で体が小さくなったせいか、シーツの下に人がいるとは思えない薄さだった。線香をあげても実感が湧かない。病院から実家に運ばれた叔父は綺麗な顔をしていた。死因は肺の力が弱まったことによる窒息死とのことだったので辛かったと思うが、安らかな顔つきだったのが救いだ。翌日は仕事があったし、実家にいても何もできないということもあり、兄に送ってもらい、家に帰った。叔父さんというと普通は、自分の親の弟というだけで、人によってはほとんど会わない親戚の一人ということもあるだろう。僕ら兄弟にとって叔父さんは、今まで僕らを育ててくれた人だった。僕が生まれてから就職して寮に移るまでずっと一緒に暮らしてきた。ただ一緒に暮らしていただけではなかった。父と母が離婚して祖母がその代わりに食事を作ってくれていたが、その祖母が他界した後は、叔父さんがずっと食事を作ってくれた。高校時代にお弁当を作ってくれたのも叔父さんだった。就職してからも家に帰って叔父さんの作るミートソース・スパゲッティーなどの料理を食べるのが楽しみだった。僕らにとって叔父さんは言わば母であり、もう一人の父であった。叔父さんは多趣味でアマチュア無線やプラモデル、電気回路、キャンプなどいろんな知識のある人だった。おじさんともう話しができないと思うと、もっと話をしておけばよかったと悔やまれる。トランプをしている姿、木を削っている姿、テレビに文句を言っている姿をいつも見ていた。叔父さんがそこにいるのが当たり前だった。そんな叔父さんも一度、胃癌と検診されて、入院をした。手術は成功して全く何の問題もなく過ごしていて、当たり前の生活が当たり前のように続いた。実家に帰れば叔父さんがいるのが当たり前だと思っていたので、叔父さんがいることのありがたさに気づいていなかった。癌は転移するものという恐ろしい事実を忘れ、当たり前に包まれていた。昨年の11月、癌が肺に転移をしているということが判り、叔父さんは再度、入院をした。放射能治療で癌を潰すことができるということだったので、その治療が終わるのを待った。それから数日が過ぎて、父から叔父さんの癌が脳に転移していることを知らされた。脳の放射能治療は同じ病院ではできないということで、病院を移る必要があった。しかし、それには癌告知をする必要があった。昨年末に叔父のお見舞いに行った時には、既に脳に腫瘍があることを知っていた。「こんな大きい腫瘍があるんだってさ」と笑い話のように僕に話した。年末年始の海外旅行をしている時は、この時の様子から叔父さんは脳の放射能治療を受けているものだとばかり思っていたが、自体は悪い方向に進んでいた。海外旅行から帰ってきたときに、叔父さんは病院へ移動したが、移動先の医者がほとんど見離した状態だったらということを知った。その時の疲れでさらに悪化してしまったようで、今は前と同じ病院にいるとのことだった。病院で左半身の一部が麻痺してしまっている状態とのことだった。今年最初のお見舞いへ行った時は、叔父さんとまともな会話ができる状態ではなかった。正直、僕の想像を超えていたので、「叔父さん」と呼びかけるのもできない状態だった。昼食をした後は、食事を噛む運動が脳によいのか、少しまともに話せるようになった。テレビに文句を言っている姿も見られた。叔父さんの友人が来た時には、まともな会話ができていた。その日の二回目のお見舞いへ行った別れ際の時だった。これが僕に対してまともに話した最後の言葉だった。それは、僕を叱る言葉だった。僕が「おじさん、頑張って、また来るね」と言うと、「俺のことはどうでもいいから、自分のことを大事にしろ。」と叱られた。これは、海外旅行中に例の地震と津波の事件があり、そのまま音信不通になった僕が、家族に心配をかけたことを叱った最後の言葉だった。叔父さんは自分が病気で辛いのに、僕を本当に心配してくれていた。父の携帯電話にメールをして、僕が元気だということを知った叔父さんは、それまで反応が薄かったが、気を取り戻したかのように、病院で本当に喜んでくれたらしい。本当に申し訳なく思った。大きな声で謝りたかった。でも、それはできず、何も言えないまま病院を出た。そして、その後も何度かお見舞いへ行ったが、叔父さんの容態は悪くなる一方だった。病院のテレビを叔母がつけた時に「テレビは家に帰ったとき、見るからいいよ」と言って消させた姿が印象的だった。その後、叔父さんが退院をして実家に戻っている夢を見た。叔父さんが亡くなったのは、その数日後、朝、あまりの寒さに目が覚めた日のことだった。医者に見捨てられた状態なわけだから、ある程度の覚悟はできていたが、1月27日、この日からもうおじさんのミートソース・スパゲッティーを食べることはできない。1月27日の夜から1月30日の夜まで叔父はテレビのある居間の布団の上で眠り続けた。もう目を開けてテレビを見ることはできないけど、家族がいつもテレビを見ている実家の居間へ帰ることができた。1月30日は祖母の眠るお墓があるお寺でお通夜を行った。お焼香をあげる一般の人たちに挨拶をする役割を僕と弟でやった。明大前の商店街に住んでいた頃の方々など懐かしい面々もいた。全く気づかなかったがその中に母がいた。兄が連絡をしていたらしい。弟が呼びにきて、今なら見ることができるというので、複雑な気持ちだったが会いにいった。母に会うのは27年振りというか、ほとんど記憶は無く、写真に写っている母の印象くらいしかなかった。今まで母の話をするのはタブーというか、母のことを思い出す必要もないくらい愛情いっぱいに父や祖母や叔父が僕らを育ててくれたわけだ。多分、叔父さんが母親代わりがいなくなる僕らを心配して、母を導いてくれたのだと思う。母と話をする貴重な時間を与えてくれたけど、叔父さん!心配しないでも大丈夫だよ。僕の親はお父さんとお婆ちゃんと叔父さんだけだよ。母がこのエッセイを読んでいるかもしれないので、申し訳ないと思うけど、僕の親は今まで育ててくれた、父と祖母と叔父だけだ。叔父さんのお通夜から1週間が過ぎた日曜日に実家へ帰ると、叔父さんが作ったミート・ソースが冷凍されて残っていることが判った。父と弟と一緒にスパゲッティーを作り、叔父さんのミート・ソースをかけて食べた。叔父さんが作るいつものスパゲッティーの味がした。これが最後だと思うと悲しくなったけど、叔父さんが亡くなってもう食べられないと思っていたミートソース・スパゲッティーが食べられて嬉しかった。このエッセイを書いているとき、今更、涙がたくさんでてきた。叔父さん、今までいろいろありがとうございました。天国でお婆ちゃんと一緒に僕らの成長を見守っていてください。ご冥福をお祈りいたします('05/2/15)。


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