余命1ヵ月の話

 5月10日の母の日に義姉が三十八歳という若さで他界した。義姉は宮古島出身の物静かな人だった。義姉の脳腫瘍の話はだいぶ以前から聞いていた。手術を数回したことも聞いていた。腫瘍が悪性になったことも聞いていた。兄夫婦とは年に数回しか会わないので、何か現実味が無かった。どこかで死ということから目を逸らしていた。そのニュースを聞いたのは函館へ旅行している3月12日のことだった。兄からのメールは「余命1ヵ月」という内容だった。僕にできることはお金を貸すくらいしかない。何もできない無力さを感じる。それでも、新薬を試せるといった話もあり、高額だが自家がんワクチンの接種によって癌が消える可能性もあるということで吉報を待った。そして、1ヵ月が過ぎた。義姉が亡くなることはなかったが、義姉はホスピスへ移った。それまで1度もお見舞いへは行かなかった。辛い時間を味わいたくないという気持ちから、行けなかった。しかし、父からの電話があり、ゴールデンウィークの5月2日にお見舞いへ行くことになった。嫁と一緒に中野のホスピスへ向かった。義姉はもう喋ることはなく、ただ呼吸をしているだけだった。兄に状態を聞くと、自家がんワクチンは接種するのが遅かったようで、腫瘍は更に大きくなっているとのこと。奇跡が起きなければ、もって3週間とのこと。兄夫婦には小学校1年生になったばかりの一人息子がいる。その息子が妙に元気なのが気になる。寂しさの裏返しなのか、暴力的にもなっている。そして、兄と甥と僕の3人の席で、兄は自分の息子に言った。「もうお母さんの病気は治らないかもしれない」と言う言葉。息子からは「治らないとどうなるの?辛い日々が続くね。」と言う返事。無邪気なのか分かっているのか。辛い日々が続くことは確かだと思った。その日は沖縄から来た義姉の姉が看病をしていた。3月末からずっと泊り込みで看病をしているとのことだった。義姉は6人兄弟で、姉が2人、兄が3人いる末っ子だった。一番年下の義姉の命が一番最初に無くなろうとしているのだから、兄も姉もやりきれないことだと思う。必死の看病をしたに違いない。自分の無力さを感じる。その日の夜は、東洋医学気功の先生が出張に来るとのことだった。この気功に奇跡を信じるしかないと言う、藁をも掴む思いが伝わり悲しく思った。また来ることを約束してその日は帰宅した。その3日後の5月6日に、再び嫁を連れてホスピスを訪れた。ゴールデンウィーク最後の日になる雨の日だった。考えてみればゴールデンウィークも土日も無く兄は義姉の看病をしている。精神的にも疲れているに違いない。病院には兄だけがいた。義姉の呼吸は落ち着いている様子だった。テレビには最新医学や介護のDVDが流れていた。気持ちは下がるが、兄が明るく振舞っているので、それに答えた。弟と一緒だったが、弟は用事があり先に帰った。時間は刻々と過ぎていく。雨が止む様子はなかったが、僕らも帰ることにした。ゴールデンウィークが終わり木曜日、金曜日と仕事をした。仕事が終わった金曜日の夜、弟からメールが来ていた。義姉の危篤を伝えるメールだった。翌朝、弟のメールは様子が分からないが、とにかくホスピスに行くとの話だった。僕も駆けつけることにした。ホスピスには義姉の2人の兄とベッドに横たわる義姉の兄の息子と娘がいた。危篤の山は越えたとのことだった。山を越えたと言っても、義姉が言葉を発せず、ただ呼吸をしているだけという状態が変わったわけではない。兄の話では、昨日、甥と共に病院へ行くと物凄く短く荒い呼吸でびっくりし、手足も酸素が廻らず変色していたとのことだった。一生懸命みんなでさすって、少しづつ回復していったそうだ。今日も甥は妙な元気を見せてはしゃいでいた。義姉の兄の話では一時期は呼吸をしなくなったとのことで、その時は甥も泣いていたそうだ。義姉の兄の話では甥は「僕が小さくなることができたら、耳から入って病気をやっつけてやる」と言ってたそうだ。そんな無邪気な甥っ子だが、母を失うことの辛さは、やはり分かっているということだろうか。その日は義姉の一番上の姉が沖縄から来ていた。義姉の姉は泣いていた。泣き続けていた。義姉の呼吸は前回とは違い、速い呼吸となっていた。奇跡は本当に来るのだろうか。その日は1日病院にいたが、呼吸も落ち着いているとのことで、気功の先生が来る前に一度、父と弟と一緒に伊勢原の実家に帰ることにした。翌日は母の日だった。僕たち兄弟にとっての母は育ててくれた祖母と叔父だ。実家の近くの祖母と叔父が眠るお墓参りに行った。お墓の前で父が兄に電話した。父の電話の奥には、義姉を大声で呼びかけている兄の声があった。そして、義姉の兄から「もう寿命だ」という一言があったらしい。僕たちはロマンスカーに乗ってホスピスに向かった。ホスピスに着くと兄がスーツを着ている葬儀屋らしき男と冷静に話していた。その様子から察しがついた。義姉を大声で呼び続けた兄は、現実を受け止めたのだろうか、あるいは受け止められないまま話の流れに飲み込まれているのか、僕には分からなかった。一つ分かっていることは、部屋の扉を開ければ、永眠を始めた義姉がいることだった。僕は部屋の扉を開けた。疲れ果てた義姉の兄と姉たちがいた。そして、そこには息をしない義姉がいた。母の日の今日まで義姉は頑張り続けた。余命を1ヶ月近く過ぎたこの日まで頑張り続けた。一人息子が忘れないように母の日を命日に選んだのかもしれない。毎年、母の日が近づくと甥は母を思い出すことになる。「辛い日々が続くね」という甥の言葉通りになったのか。いや、そんなことはない。甥は母の日に母の愛情を思い出すことができるようになったんだ。母親が亡くなったというのに、妙な元気さは変わっていなかった。兄の話では昨日、義姉を呼び続け、心臓マッサージの要領で胸を押したりさすったり1時間くらい続け、少し途方にくれていると、甥が泣きながら来て、お母さんの両肩に触れながら「お母さんは神様になったんだからもう心配しなくていいんだよ」「今まで、こんな病気と戦ってきた凄い強いお母さんなんだから」「嬉しいよ」「良く頑張ったんだから」と誰も教えて無いはずの言葉を兄にかけたらしい。そして、眠る義姉に甥からカーネーションのプレゼントをする。涙を頬に感じた。そして、義姉は化粧をして普段着のジーパンに着替えた。ホスピスの先生が来て「では僕の時計に合わせて、12時35分をお別れの時間にします」という言葉。ホスピスは死亡推定時刻ではなく、みんなでお別れをした時間が臨終の時間となるらしい。その先生の言葉を遮り「ちょっと待って、僕の時計は12時37分なので、37分でお願いします」という兄の言葉。何のこだわりだったのかは僕には分からなかったが、兄が義姉と一緒に時を刻んだ時計で最後の時間を刻みたかったのだろうか。義姉の命日は母の日。僕はそれでよいと思った。その日の夜、枕花を持って、嫁と一緒に府中にある兄の家に向かった。兄の家には宮古島から来た義姉の両親と一番上の兄、叔父が来ていた。義姉の母は泣き続けていた。宮古島の方言で義姉に話しかけて泣き続けた。兄の家は悲しみに包まれていた。兄の精神的な疲労はそうとうのものと感じた。病気を恨むことがあっても、兄を恨むようなことは絶対にして欲しくないと思った。兄は兄のできる全てを出し続けて看病を続けた。それに答えて義姉も今日まで頑張ってきたのだと思う。映画「涙そうそう」では、人には長い命と短い命があると言っていたが、短い命の義姉はまだまだ遣り残した気持ちが残っていたかもしれないが、強い気持ちを持った甥の中で生きつづけていくことだろうし、空から甥の成長を見守り続けていくことだと思う。御通夜と告別式は1週間あいた5月の18日と19日だった。19日は会社で嫌な仕事があったが、忌引きとなり免れることができた。義姉が最後にくれたプレゼントだと感じた。告別式の最後の棺に花を入れる時、甥は泣いていた。まだ小学1年生の甥が母を本当に失う瞬間だった。義姉との最後の瞬間に涙が流れる。義姉の兄や姉、両親は泣き続けた。声をだして泣いていた。義姉の母は義姉の骨を見ることもできず、泣き続けていた。考えてみれば自分の子供の骨を見たい親がいるわけがない。その日は伊勢原の墓地に納骨をした。僕らの母である祖母と叔父が眠るお墓に義姉も眠ることになった。御通夜、告別式と会計係を任されていた僕は、そのまま府中の兄の家に帰ることになった。甥は相変わらず暴力的だったが、悲しみを紛らわすためなのだろう。これから兄と甥の男2人で生活をしていくことになるのだが、神様となった義姉が二人を見守り続けていくことだろう。義姉のご冥福を心から祈ります('09/6/1)。


エッセイのホームページに
戻る 戻る

satoru@sumadore.com