家族と親戚の話

 6月12日の話ですが、祖母の妹が亡くなりました。その日は父の日のお祝いをヤマダ電気で買いに行った日です。私が勤めている会社が作っている3Dノートパソコンを買いました。かなりの奮発ですが、誕生日はルルドのマッサージクッションと、あまり大したものを買っておらず、むしろマッサージクッションは父の日に買えば良かったと後悔したので、代わりに父の日を豪勢にしてみました。父が3Dカメラを買ったので、写真立てにするか悩んだのですが、パソコンの方が大画面だし、良いかなーと思い買いました。ノートPCにするか、デスクトップにするかも悩みました。デスクプットの方が安いのですが、撮った写真をみんなに見せるということであれば、ノートPCの方が便利だろうってことで、ノートPCにしました。3D機能に加えてブルーレイや無線TV機能がついているので若干高めですが、一昔前は50万円くらいしていたことを考えると、今ではすっかり安くなりましたね。と、前置きが長くなりましたが、祖母の妹さんは、横浜に住んでいて、横浜の叔母さんと呼んでおりました。何回もお年玉をもらっており、祖母が生きていたころは遠い親戚という感じもせず、よく実家に遊びに来ていた記憶があります。祖母が亡くなってからは、あまり会うこともなく、父から話を聞く程度となってしまいましたが、私が結婚したことを父が伝えると、ご祝儀を頂きました。ハワイでお返しを買うのに悩んだのを記憶しております。照れくさくてお祝いを頂いたのに連絡をしていなかったのですが、嫁と実家に帰った日に、父に電話しろと言われて、照れながら話したのが最後の会話でした。電話の向こうには、お年玉を貰っていたこ頃と変わらない声がしました。ちび丸子ちゃんのおばあちゃんのような、ちょっとキーの高い感じの声です。御礼を言って電話を切りました。その昔、祖母の誕生日があって、兄と弟が手作りの誕生日プレゼントを祖母に渡しました。確か兄と弟が作った何かを僕も手伝っていたのですが、それを言うタイミングが無く、私だけがプレゼントを渡していないような空気が流れたのですが、この横浜の叔母さんが、私も手伝っていたのを知っているよと伝えてくれたのを覚えています。多分、横浜の叔母さんは私が手伝っているところを見ていないと思うのですが、なぜ知っているのか疑問に思いつつも、それを伝えてくれて、すごく気分がスッキリして、感謝したのを記憶しています。そんな横浜の叔母さんですが、6月12日に逝ってしまいました。その日は、横浜の叔母さんの夢を見ました。横浜の叔母さんが亡くなったというのは誤報で、横浜の叔父さんも亡くなっておらず、二人が昔のまま、私に話しかける夢です。考えて見たら、横浜の叔父さんの葬式にも行ってないので、本当に亡くなったのかも分からないまま、なんとなく亡くなったと思っていたところもありますので、生きていても不思議はないのではないでしょうか。と、目が覚めれば現実です。告別式が18日の午前中になった旨のメールが父から入っておりました。父の日のプレゼントのノートPCの郵送時間にブッキングです。そして、通夜が17日になった旨の連絡がありました。兄から久しぶりにメールが来て、葬儀の花を出すので、賛同するかとのメール。賛同するも何もお年玉を散々もらっておりますから、賛同しないという答えはないです。そして、時は経ち17日です。父から「検査の結果、問題ありませんでした。ご心配かけました。」という内容のメールをもらいます。何のことやら分かりません。仕事で間に合わなそうですが、なんとか仕事を終えて、フレックスで帰宅して、マロンに餌をやってから吉野町の葬儀場へ向かいます。遅刻してしまいました。「ご親族ですか?」と聞かれて「はい、そうです。」と答えますが、遠い親戚をご親族と言うのか悩み、「親戚です。」と言いなおします。案内され、父、兄、従姉妹と従姉妹の母、従兄弟の両親と祖母と見慣れた顔ぶれが、並んでおりました。その対面に座ります。こちらの席は本当の親族が座っている感じで、居心地が悪いです。お焼香を一人でします。そこには、昔と変わらない横浜の叔母さんの写真がありました。そして、親族で献杯の食事です。兄から葬式の時に私の隣に座っていたのが、母の弟であることを聞かされます。兄も父に聞かされたそうです。つまり、僕らの叔父さんなわけです。父と母は離婚をしておりますが、親戚、たしか、義従姉妹だと聞いているので、横浜の叔母さんの親戚であることは間違いないようです。しかし、今更「叔父さん」と呼ぶこともできず、叔父さんであることを聞かされても何もできないわけです。それから、叔母に話を聞いて、さきほどの父からのメールの意味が分かりました。新宿で気分が悪くなり倒れて、脳の検査をしていたそうです。その結果だけがメールで送られてきた訳です。結果、異常なしということで安心しましたが、心配する時間もありませんでした(笑)。横浜の叔母さんは91歳とのことです。天寿を全うしたということでしょうか。喪主さんからは「”入院でいない。”とか”旅行でいない。”その時の気持ちと”逝っていない。”というのは全く違う。」という話を聞きました。確かに「生きている」ということを知っていて、会えない状態と、もう二度と会えないって気持ちは違いますね。うちの祖母とは年齢が4歳離れているとのことを始めて知りました。祖母が亡くなったのが73歳ですから、22年が経った計算ですね。祖母が亡くなったのは、確か高校1年生だったと思います。以前のエッセイに書いたかもしれませんが、僕の両親は離婚しており、祖母と父と叔父と兄弟3人の六人家族でした。小さい頃は、犬のゴンタと猫のアカもいました。そして、祖母が母の代わりとして、家事をしておりました。お小遣いも毎日100円もらっておりました。僕らの毎日は「おばあちゃん、100円頂戴」から始まります。3人兄弟だから毎日300円をせびっていたことになりますね。僕はこの100円をキン肉マン消しゴムに費やしてしまうのです。そんなおばあちゃんの名前はコウ。今では柴崎コウが有名になったので、すごくはいからなおばあちゃんの名前って感じですが、カタカナでコウって変な名前だなーって思っておりました。そして、夕飯の時間は5時。お腹が空いて、夜食のチャルメラをよく食べてました。ある意味1日4食の生活だったわけです。おつかいのお駄賃、肩たたきのお駄賃を良くもらってました。スーパーのお一人様2品までを、兄弟総勢でよく買いに行かされてました。6人家族の生計を立てるのは、なかなか苦労していたのではないかと思います。親戚の集まりでよく来ていたのが、父の弟と妹、従兄弟に続いて、横浜の叔父さん、叔母さんです。叔母さんは祖母の妹ってことでよく話しておりました。祖母は二階の畳の部屋のベッドに寝ており、僕らはその横で布団を敷いて、兄弟3人と父と寝ておりました。今思えば広い部屋でした。玄関があり、応接間があり、応接間意外に1階に部屋が2つとリビングが1つ。2階にはこの広い畳の部屋と、父と叔父二人の部屋が1つづつ。広い家でした。リビングのテーブルの下にはゴンタがいました。椅子を揺らして遊んでおり、椅子ごと後ろに横転して、頭で思いっきり窓ガラスを壊した記憶があります。本当、ゾッとする話ですが、ガラスの割れ方が悪かったら死んでましたね。運良くガラスは全部後ろにいって、怪我ひとつなかったのです。もちろん、怒られましたけどね。そんな祖母が亡くなる前日くらいに、祖母が僕に「足のくるぶしのところが、こんなに膨らんでる」と見せて「どうにかなっちゃったらどうしよう」と言った話をしました。その翌朝に祖母が狂ったようにさ迷い歩き、倒れて救急車で運ばれ、その日に亡くなりました。前日まで話せる状態だったので、なんとも不思議な気持ちでした。祖母というより、僕らにとっては母が亡くなってしまったのです。高校一年生ですから、もう子供って訳でもないので、記憶はハッキリしておりますが、今では祖母の声が思い出せません。二十二年も前のことです。人間、嫌なことは忘れていきます。忘れないと生きていけなくなってしまうから、忘れられるように人間は作られているのでしょう。家のガレージを葬儀場にして、葬式は行われました。火葬場へ行った記憶がないのですが、これも嫌な思い出だから忘れてしまったのかもしれません。祖母が亡くなり、家族は男だけの5人家族となりました。祖母が亡くなり、相続税やなんやで父も色々と苦労をしていたのですが、4年後に明大前にあった家を出ることになりました。つまり、高校生活は普通に明大前で過ごせていたのです。今思えば、父の苦労は大変だったと思いますし、父にとって明大前を出るという決断は辛いものだったと思います。高校は明大前に近い高校だったので、通学は楽でした。勉強も応接間で良くしました。大学は夜間大学えしたが、この高校の理科の実験助手の仕事をしながら、大学に通っておりました。大学2年生になって実家が引っ越すことになりましたが、高校の理科の実験助手も続けることができ、大学も通い続けました。高校の空いている時間に大学のレポートなどを書いたら、試験勉強をしていても良かったので、環境には恵まれていたと思います。そして、大学を卒業して、昼間の大学院に進みました。そして、会社に入社して会社の寮に入り、家を離れました。それ以来、家族と住むことはなくなりました。弟は結婚するまでずっと実家に住んでいたので、弟が一番長い実家生活となります。その間に叔父が亡くなり、父と弟の二人暮らしが始まり、弟が結婚して、今では父は一人暮らしとなっております。兄はとっくに家を出ており、子供が1人いますが、嫁さんを病気で亡くして、兄と甥の二人暮らしをしています。仕事の関係で3人で暮らすのは難しいようですが、父も歳なので3人で暮らして欲しいと思います。ただ、父は今、年金暮らしで1人寂しく生きているという訳ではなく、明大前でピースメーカーという仕事をしているので、安心感はあります。叔父がなくなってすぐに、父の二番目の弟になる叔父も亡くなりました。4人兄弟は父と妹だけになってしまったので、その寂しさは大きいと思います。長兄の嫁さんも亡くなり、苦労は耐えない感じです。そして、父にとっては、亡くなった母の代わりとなっていた横浜の叔母さんが亡くなり、とっても悲しい思いをしたことでしょう。祖母が亡くなった時からずっとお世話になっている住職さんがいて、法事も必ずお願いしている住職なのですが、横浜の叔母さんの葬儀にはいませんでした。若い坊さんが担当しています。横浜の叔父さんは、住職の担当しているお寺にお墓があり、僕らの先祖のお墓の隣りに建っているので、今回もこの住職だと勝手に思っておりましたが、違うお坊さんでした。話を聞いてみると、いつもの住職の息子らしいとのことでした。お坊さんが帰り、関係者が流れ解散します。父の従姉妹の旦那さんという人から戦争時代の話を聞きます。父と同い年とのことです。親戚の関係はあまり分かりませんが、少しずつ分かってきました。会食が終わり、棺に入った横浜の叔母さんの顔を見ます。写真とは変わっておりました。写真自体が古いものだったようです。祖母が亡くなった頃の写真だったようです。翌日は告別式です。昨日と同じ式場に行っきます。僕が着いた頃にはみんな揃っており、ちょっと遅刻気味な空気が流れておりました。お坊さんはいつもの住職でした。式が終わって火葬場へバスで行きます。市の火葬場なので、ちょっと雑な感じがします。兄弟3人が並んで、軽食をして、火葬されるのを待ちます。さすがに91歳ってことで、骨があまりありません。納骨して再び斎場に戻ります。そして、初七日です。再び兄弟3人並んで食事をしていると、喪主が来て昔の話をしました。うちにいた犬のゴンタの話とゴンタの親の話。それから、猫がたくさんいて、朝起きたら布団の上に寝ていたという話。祖母とパチンコ屋へ行ったという話。今までほとんど話しをしたことが無かった父の従兄弟ですが、共通の思い出話に華を咲かせました。そして、告別式は流れ解散となり、葬式と告別式の2日間が終わりました。今回のことで、親戚の名前がやっと分かってきました。祖母の葬儀は子供だったので、葬儀に来たどの叔母さんが、どこの親戚で、その叔父さんが、どこの親戚なのか分かっていませんでした。まー、全てが分かったわけではないですが、僕の母が、この横浜の叔母さんの旦那さんの妹の子供ってことが分かりました。それで、母の弟が昨日、葬儀に来ていたわけです。父の義理の弟である前に、喪主である横浜の叔母さんの息子から見れば、従兄弟ってことですからね。何やら複雑な親戚関係なわけです。その叔父さんはむすっとした顔をしており結局、一言も話すことは無かったです。私との血縁関係もあるわけですが、何十年ぶりに見た姉が捨てた息子と接するというのも難しいのでしょう。6年前に上の叔父さんが亡くなった時は、母親が葬儀にきており27年ぶりに話すという事件がありましたが、今回は母も来ておらず、母の弟と話すこともありません。そもそも母に弟がいるというのが初耳ですので、何の思いでもないのです。前にも言いましたが、僕の親は今まで育ててくれた父と祖母と叔父の3人であり、それで僕は幸せな人生を過ごせていると思っています。告別式の帰りにお供えのメロンとパパイヤとリンゴを貰って美味しくいただきました。来月には四十九日を迎えて、うちのお墓の隣のお墓に納骨されます。横浜の叔父さんも1人でお墓に入っていたので、やっと夫婦で一緒になれて喜んでいることだと思います。隣で姉である、僕らの祖母とも二十二年ぶりに一緒に話ができているのではないかと思います。自分より18歳も歳をとってしまった妹に、ビックリしているかもしれませんが、昔のように色々と話をしていると思います。二人の叔父も久しぶりに叔母さんに会えて、喜んでいると思います。ただ、兄に会えるのは、まだ数十年先のことだよと叔父さんには言いたい。父にも天寿を全うしてもらうことが、僕の望みです。父は息子の嫁さんを全員見ましたが、11月に、弟の娘の結婚式が控えておりますので、弟が病気で見られなかった娘の花嫁姿を代わりに見る義務がありますし、結婚式の後に控えているであろう弟の孫の顔も見る義務があります。父の孫の結婚式を見るまでは天寿を全うしたとは言えないと思うので、あと数十年は、父を私の祖母である母や私の叔父である弟のところへは行かせません。いつまでも健康で長生きすることを、毎日祈っております。

以上('11/7/1)。


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