すき焼きの話

 明けましておめでとうございます。2020年は大変な年でした。いろいろなことが制限されて、非日常が繰り返し、日常化されるという変化の年でした。予想していた昨年を表す漢字一文字は「禍」ではなく、「密」でしたが、「禍」がアマビエに消される気配は未だに感じません。昨年、会社で自分の社会人としてのルーツを考える時間がありました。入社前も含めて自分を振り返ろという話です。思えば自分は人に支えられて生きてきました。自分の人生を左右する一番最初の変化は何かを考えた時に思い浮かんだのが、親の離婚です。親の離婚を経験している人は東京では多いと思いますが、それでもクラスで一人いるかいないかだと思います。少なくとも私が小学生だった頃の自分のクラスでは自分だけだったかと思います。学年でいっても、いなかったのではないかと思います。全学年で言えば、少なくとも他に2人はいますね。兄と弟です。まー、そんな話を友達同士ですることもありませんでしたので、他にもいたのかもしれませんが、私の授業参観は母親ではなく、父親が来てくれたのですが、他に父親が来ている人はほとんどいませんでした。幼稚園の遠足の集合写真でも母親の中に一人父親がいました。ここのエッセイでも書いたと思いますが、それが嫌だったとかいう話ではなくて、凄いことだなって話です。今でこそ父親が授業参観に参加するのは当たりまえですし、少子化により両親が二人とも参加することも多いです。最近はコロナ禍で人数制限されて、どちらかの参加に制限されているようですが。親が離婚していることで、私の中では「普通」が人とは違うという思いはあり、それが良いとか悪いとかではなくて、人と違う感性がもてるようになったのではないかと思います。また、祖父がニューヨークに航海して、会社を創った人であり、その会社を継いだ父が社長をしていたので、実は社長の息子だった頃があります。世田谷区の商店街で育っており、自分が社長の息子だって思ったことなんてないですが、あとあと考えたら社長の息子だったって話です。母親はいませんでしたが、祖母と叔父と父、兄と弟と商店街で20年暮らして、何不自由ない生活が送れておりました。普通ではないかもしれませんが、暖かい家庭に生まれたことを感謝しています。次の変化点は祖母の死です。初めて、家族の死というものに遭遇しました。祖母が亡くなった日の記憶は今でも少し残っています。前日まで普通に話していたし、当日も家で一緒に寝ていたと記憶しています。自分にとっては母親のような存在でしたので、悲しみは大きかったです。祖母がなくなり世田谷の家に住めなくなりました。これが大きな転換期となる「引っ越し」です。人生の中で人は何回引っ越しをするのでしょうか。今も大阪の「引っ越し」に苦しめられておりますが、最初の引っ越しの時の記憶も残っています。20歳の時ですが明大前徒歩3分が愛甲石田徒歩20分に変わったので衝撃でした。引っ越しの翌日の帰り道で、車に雨水を思いっきり跳ねられたのが記憶に残っています。これは社会人としての転換期というか、人生の転換期ですが、その引っ越し前のアルバイトが私の社会人としての転換期です。ここのエッセイでも書いておりますが、私立高校に入学して、クラス一番の成績を取って、鶏頭となった私ですが、大学受験の推薦入学には失敗して、夜間大学へ行くことになりました。昼間に働いたアルバイトの皿洗いが自分の社会人としてのルーツなのかもしれません。今日はお正月ですが、正月の夕飯はすき焼きを食べるって我が家の慣習になりつつあります。帰省もできませんので、浮いた新幹線代で家での初贅沢って感じです。すき焼きがたらふく食べられるかもしれないという淡い期待のもと、すき焼きの 「今半」のアルバイトをすることにしました。当時、流行っていたバイト探しのFROM Aで探しました。人形町がどこなのかも知らなかった私ですが、新宿ルミネにある今半で皿洗いをしておりました。残念ながら賄いの食事はすき焼きではなく、業者のお弁当でした。皿洗いを職種に選んだのは自分は裏方の方がよいという気持ちがあったからです。人との接触が苦手だったので、ホールの仕事とかは無理だと思い、皿洗いを選びました。当時の私は「社会人」ということのイメージがあまりできていなかったので職種があまり理解できていなかったのだと思います。アルバイトの面接で、優しい感じのホール担当の店長と強面の板長と話して、すぐに採用されました。まー、皿洗いのアルバイトで落ちる人はそうそういないとは思います。皿洗いのスタッフは4人です。面倒見がよいけど口うるさいおばさん。確か新田さんだったと思います。それと中国人女性の王さん。あと、名前が思い出せないですが、歳の近い先輩がいました。新田さんはよく王さんと先輩を叱ってました。皿洗いですが、茶わん蒸しの具を入れたり、皿洗い以外の業務もありました。中国人と接するのもこの職場が初めてでした。若い女性でした。ホールスタッフも着物を来た若い女性が多くて、男子校出身の私としては、女性と接することも少なかったので、ドキドキしながら仕事をしていた記憶があります。料理人もいろいろなキャラクターの人がいました。人間関係の相関図が描かれます。皿洗いをしていて思うことが、食べ残しの多さです。日本人は贅沢だなって感じました。残り物を食べたくなりましたが、育ち盛りでしたが、それはしませんでした。人が食べたものを洗うのですから、コロナ禍の今ではすごく嫌な仕事にランキングしていること間違いなしですね。ここで仕事というものと人間関係というものを勉強させてもらいました。ここでの経験が社会人の基礎を作ったと思います。皿洗いのバイトは半年くらいしましたが、新宿ルミネの改装工事により、終わりました。改装後にも店長からアルバイトの継続を依頼されましたが、断りました。良いタイミングで母校から理科の実験助手のアルバイトの誘いがあったからです。ここで働いた3年半は自分で考えて行動することを学びました。初代の実験助手ですので、決められた仕事があるわけではないので、いつ辞めさせられてもおかしくないので、実績を作らなければいけません。とにかく、人に必要だと思われるようにすることを学びました。これも今の社会人生活にとって大きな経験として活かされていると思います。自分が人に必要とされなければ、そこに自分の居場所はなくなる、それは今の会社でも一緒です。思えば、1998年にアルバイトではなく、正社員として社会人になってから、入社当時の主任をはじめ、多くのひとに助けられて、現在に至っております。人が人に支えられながら、人を支える。その連鎖が会社をつくるのだと思います。今半での皿洗いの経験が自分の社会人としての基礎をつくり、高校の実験助手で社会人としての骨組みができあがった。そして、今の会社で肉付けをし続けている。すべては経験であり、自分の肉となっていきます。失敗も成功も全てです。社会人としての完成はありません。定年退職で最後に自分の社会人として作品を観るのかもしれません。自分の基礎となったすき焼き屋の皿洗いが誇れる日がくるのかは分かりません。残念なことに大阪には今半がありません。東京に戻ったら今半のすき焼きを食べたいと思います。まー、皿洗いしてた頃は結局、すき焼きを食べてないので思い出の味でもなんでもないのですが。すき焼きを食べると皿洗いをしていた頃を思い出す。それが私の社会人のルーツなのかもしれませんという話でした。最近、エッセイ、エッセイと言いつつ旅行記ばかりなので、原点返り咲きの2021年最初のエッセイをお送りしました。

以上('21/1/1)。


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