俺の家の話

 新しい年度になったばかりだが、今から俺の家の話をする。俺の家には工場があった。親父は世田谷区にあるヘアトニックを製造している小さな化粧品工場の社長だった。親父に叱られた記憶はあまりなかった。兄弟は2つ上の兄と2つ下の弟。離婚した母さんの記憶はなかった。写真に写っている顔しか思い出せない。親父が後継ぎを作りたかったかは知らないが、化粧品会社は後継ぎを設けることなく倒産した。工場は家族全員で手伝った。お駄賃欲しさに手伝った。あのまま工場が残っていたら、今頃俺は...。自営業だったので親父とはいつでも喋れた。親父の他の従業員は祖母と叔父だけだった。子供たちのことを思ってくれる優しい大人たち。祖母とともに工場はなくなった。15歳の時に祖母が亡くなった。膨大な相続税により、親父は工場を続けることができなくなり、俺が20歳の時、世田谷区の明大前駅から徒歩3分のところにあった100坪の家を離れることとなった。神奈川県伊勢原市の愛甲石田駅から徒歩20分のところに引っ越した。俺は昼間に高校で理科の実験助手をして、夜間大学で勉強をしていた。高校に入って努力は正当に評価されることを知った俺は、勉強を続け、夜間大学でも勉強を続け、大学院に進学した。そして、いわゆる一流企業に入ることができた。パソコンが好きだった俺は、パソコンを製造している有名な会社に入った。だが、パソコンの製造とは無縁のITの仕事を入社当時から続けた。リーマンショックが起きた年に結婚、東日本大震災が起きた年にマンションを購入、自民党が民主党から政権を奪回した年に男の子が生まれ、トランプ大統領が誕生した年に女の子が生まれた。その後、大阪へ武者修行の転勤が言い渡された。そして、勤務地が神戸市になった。俺はもう世田谷区に戻ることはできない。なぜかそんな考えが頭をよぎった。持ち家のマンションは神奈川県の川崎市なのに。持ち家をもっているのに借家に暮らし、借家から2時間の通勤をする現在に至る。そんな、ドラマ「俺の家の話」のオープニングの長瀬智也の語りに沿った始まり方をしてみたがそれほど濃い人生を送ってもいないので、自民党とかトランプ政権とか今までの人生とは無縁の話をしてしまった。俺は宮藤官九郎のドラマが好きだ。IWGPから始まり、木更津キャッツアイ、タイガー&ドラゴン、あまちゃんと宮藤官九郎が脚本を書いているドラマはほとんど録画した。長瀬智也と岡田准一の主演ぶりがすごく好きだったので、今回の「俺の家の話」も楽しく見せていただいた。特に最終回は木更津キャッツアイを思い出させるような、遡ってあー、そーだったのかと思わせる演出が宮藤官九郎らしさを出していて、お笑い満載なのに感涙を誘う素晴らしい作品だったと思う。話を戻して、再び俺の家の話をする。俺が生まれた家は前述したように世田谷区の100坪ある工場を兼ねた一軒家だった。明大前から徒歩3分くらいのところにあり、すずらん通りという商店街の中にあった。小売店も兼ねており、そこは事務所とよばれる場所と一緒だった。一軒家には門があったが、普段の出入りは車庫のあるシャッター側から家に入った。車庫には車4台が止められるスペースがあり、トイレもあった。車庫を右に行くと事務所と小売店のお店に繋がる。2Fはヘアートニックを箱詰めする場所だった。ヘアトニックを箱詰めして段ボールに入れる工場のような場所だった。なぜかパチンコ台が2台あり、遊んだ記憶がある。事務所の前には冷蔵庫があり、搬送用のエレベーターもあった。工具もいっぱいおいてあり、俺たち兄弟の自転車もここに置かれていた。叔父がバイクに乗っていたので、叔父の工具がいっぱいあった。事務所にはいつも親父がいて、話すことができた。ここにある事務用の椅子に座るのが好きだった。タイプライターもあった。タイプライターといっても電子式のものではなくカーボン用紙に一文字一文字紙にタイプするものであった。パソコンが好きになったのはこのタイプライターに興味をもったことからかもしれない。もっとも、プログラミングができるようなものではないので、プログラミングはファミリーベーシックで興味を持ったことによるが、ファミリーベーシックに興味を持たせたのはこのタイプライターではないかと思う。合わせてプログラミングの才能は無いと思わせてくれたのもファミリーベーシックだったのかと思う。ベーシックマガジンという雑誌があったが、そこにはマシン語で記載された凄いゲームがいっぱいあった。ハードウェアの限界を超えるゲーム。俺にはそんなものを創る才能はないと理解した。家の車庫には坂道のようになっている場所があり、そこで自転車の練習をした記憶がある。その坂道を登ると家と事務所をつなぐ工場がある。ヘアトニックを作る工場だ。二階は道具置き場になっており、独特の臭いがした。ここを更に登ると屋上があり、様々な植物が植木に植えられており、祖母が水やりをよくしていた。俺たち兄弟はここでビニールのプールで遊んでいたようだ。記録はあるが、あまり記憶はない。工場はヘアトニックを作っているので、アルコールのような独特な臭いがした。ヘアトニックを詰める瓶やプラスチックを洗う工程をよく手伝った。箱詰めをする部屋がここにもあったと記憶している。ここに階段があり、少し上がり扉を開くとそこは家の庭に繋がる。庭には池があり鯉が泳いでいた。木がいっぱい生えており、ボタンの花が咲いていた。家の入り口は2つあった。玄関とよばれるところとお勝手と呼ばれるところ。俺たち兄弟はお勝手から出入りした。お勝手の入り口にはゴンタという大きな白い犬がいた。大きい犬だったが基本的には室内で飼っていた。同じく室内にはアカという茶トラの猫がいた。お勝手の入り口の前が池になっていて、ここに落ちて溺れそうになるというトラウマを俺ら兄弟はもっている。お勝手を開けると台所になっている。冷蔵庫が2つあった。夕飯が5時だったので、夜中にお腹がすいてインスタント袋めんのチャルメラやサッポロ一番に冷蔵庫のハムやタマゴを入れてよく作った記憶がある。ゴキブリがよくでる場所だった。台所からは2つのルートがあり、右に行くと食卓になる。ここに夜食のインスタントラーメンや朝食のパン、薬も収納されていた。あかこと呼ばれる万能薬のような塗り薬があった。食卓は今でも実家で使っているテーブルがあり、ここで6人家族が一斉に食事をした。祖母の作る料理はみな美味しかった。大きな皿に盛り付けられて、みんなで取って食べるスタイルだった。祖母が亡くなってからも祖母の味で叔父が料理を作ってくれた。この食卓にはTVがあり、俺はTVに背を向けて座っていたので、食事中にあまりTVが見られなかった記憶がある。それに文句を言ったのかは記憶にないが、TV側ではなく、窓際に座って、椅子でふざけていたときに思いっきり後ろに倒れて、頭でガラス窓を割るという恐ろしい事件もあった。今に思えば死んでてもおかしくない話だったが、無傷だった。俺は生かされたのかもしれないが、ここで大きな運を使ってしまったのかもしれない。恐ろしい事件と言えば、玄関の扉の上のコンクリート塀が落ちる事件があった。もし、この下にいたら死んでいただろう。同じようなことが、つい最近あって驚愕した。今住んでいる大阪のマンションで5階くらいから壁が剥がれて落ちた。その時に俺の息子がマンションの出入りをする瞬間だったようで、「皿がふってきた」と言ったらしい。幸い真下ではなかったので、怪我はなかったがこのマンションに不安を感じた。その後、マンションが調査をして補強したようだが、住民には何の説明もなかった。同じように玉ねぎがふってくる事件もあったが、「落下物があり、車庫の屋根に落ちたのでご注意ください」という隠蔽したような張り紙が貼られただけだった。なぜならこの車庫には屋根なんてないからだ。住民は誰も疑問に思わないまま、私も含めて住み続けているが、空が不安になる気持ちは残ったままだ。食卓を抜けると玄関のある廊下になり、2階へ続く階段があった。玄関は広い立派なものだった。商店街のサンタがこの玄関から来たのを記憶している。玄関のすぐ右の扉は応接間になっている。俺ら兄弟のゲーム部屋と化していたが、家庭訪問で案内する場所はこの部屋だった。この部屋のテーブルに綺麗にクロスがひかれて、先生を招いた。普段はビデオデッキがあり、TVが2台あり、ファミコン部屋となっていた。暖炉があったが火をつけることはなく、ストーブが置かれた。暖炉の両脇には大きなスピーカーがあり、レコードの音楽が流れた。泳げたいやきくんをここでよく聞いた記憶がある。スピーカーの上には、美術でつかう白い像があった。これが凄くトラウマで、この像が歩いて追いかけてくる夢をよくみた。叔母がつかっていたものらしい。応接間の隣は着替えをする部屋だ。俺たち兄弟の服が置いてある。兄貴の勉強机が置いてあるが、兄貴がここで勉強している姿を見た記憶はない。俺は応接間で勉強をした。勉強と言っても一夜漬けで体に記憶させるものだったので、あまり脳には残ってない。小さい頃はこの部屋で寝ていた記憶がある。この部屋でまんが日本昔話を寝る前に読んでもらい、「死ぬ」ということの怖さを感じて泣いた記憶がある。多分、離婚した母さんともこの部屋で寝ていたのだと思う。その隣りの部屋は祖母の部屋だった。立派な仏壇があった。その隣はトイレになっており、和式の便器と小便用の便器があった。一軒家の中に小便用の便器がある家はなかなかないのではないだろうか。その隣はお風呂になっていて、洗面所もあった。洗面所で着替えてお風呂に入る。お風呂場の前には籠があり、洗濯物を入れた。そして、台所に繋がる。先ほどの玄関前の階段を登ると2階になる。この階段は落ちて怪我をしそうになることが多々あった。二階に上るとすぐにトイレがあり、様式のトイレだった。このトイレがよく詰まるのがトラウマだ。広いトイレだったので、ここでよく少年誌や漫画を読んでいた記憶がある。右に行くと親父の兄弟の部屋が並んでいる。下の叔父さんの部屋、叔父さんの部屋、親父の部屋が並んでいるこの廊下にはダーツがあった。物心ついた時には下の叔父は家にいなかったので、物置となっていた。ここに読み終わった週間少年ジャンプを置いていた。一番奥の親父の部屋も部屋としては使われておらず、俺たち兄弟が使ったおもちゃの物置となっていた。叔父さんの部屋はこの家を引っ越すまで叔父さんの部屋として使われた。多趣味の叔父さんの物がいろいろと置いてある部屋だった。階段を登って左に行くと寝室だ。2つの部屋が繋がった広い畳の部屋だった。ここで僕らは布団を敷いて寝ていた。部屋に入るとすぐに祖母のベッドがあり、TVがあった。もう一つの部屋は叔母が使っていたようだが、物心ついたころには叔母は住んでおらず、俺ら兄弟のあそび場と寝室となっていた。一軒家としては2階だがガレージから見たら4階くらいの場所になるので、眺めは良かった。こんな一等地にある広い家に住んでいたので、ちょっとした坊ちゃんだったのかもしれないが、俺らはそんなことは感じてなかった。そもそも社長の息子だなんてことは思ったことはなかった。商店街にある自営業の息子って感じだろう。何にしてもサラリーマンである俺からしたら、この事業を継続するのは大変だということは今にして思う。結果的には工場はなくなったが、それまで続けるにはいろいろな苦労があったと思う。その苦労をあまり子供たちに見せることはない親父だった。親父の父つまり、俺の祖父が愛媛県に住んでいた17歳の頃、二十余名で計画した一度目の米国密航に失敗し、二度目の密航を八名で再挙したという話を聞いた。昔の新聞によると太平洋を横断してアラスカのエココ島に漂着し、アラスカ原住民と1年ともに過ごしたらしい。その後もアメリカ本土を目指し、島に来た米国捕鯨船に乗って、カナダに渡れたそうだが、バンクーバの裁判所で取り調べを受けて日本に強制送還されたらしい。この密航の一員であった祖父が再び渡米してニューヨークで化粧品工場を経営した。1925年に化粧品の製造販売会社スマドレが創立されたのを機会にこれに参加したが、創業二年にして倒産した。借金の負債を背負って祖父が引き受けた。その後、黒人の美容院と提携して、経営が立ち直ったが、祖父はこれだけでは満足せず、日本への輸出を計画した。アメリカのジャズで日本の第一任者となった川畑文子さんのお母さんがスマドレ化粧品に興味を持ち、出資して日本で共同で製造する話があがり、祖父は日本に帰国した。その当初日本は戦時中であり、出資は中止となったが、初志を捨てず永福町にある川畑文子さんの物置を借りて、製造を始めた。その後、三越本店の理解と応分の支援があり、昭和十四年に工場と住所を幡ヶ谷原町に移した。ところが、昭和二十年の大空襲に焼けたので、当初は焼野原だった明大前近くの世田谷区松原に移り、株式会社スマドレトーキョーを始めた。ここに工場と立派な様式住宅を建てて、その製品スマドレ・ヘアトニックとシャンプーを全国の大デパート有名化粧品店に出し宣伝なしで最も効果的発展を遂げたらしい。今日が命日である俺の祖父の話となってしまったが、そんな志をもった立派な祖父から、長男である親父が会社を引き継いだが、プレッシャーは相当大きかったと思う。余談だがヘアートニックには緑と黄色があったが、黄色は「エロー」と書いてあり、アメリカで耳で言語を学んだ祖父のこだわりなのだと思った。そんな工場と立派な様式住宅とは俺が二十歳の時に別れることになった。現在ではバーミアンを経てガストになっていると言えば、その大きさが伝わるだろう。これが俺の住んでいた最初の俺の家の話。次に二番目の俺の家の話をする。4年しか住んでいないので、それほど大きな思い出はない。愛甲石田駅から徒歩20分にあり、前の家とは雲泥の差があるというと親父に叱られてしまう。今でも父が一人暮らしをしている家だ。ここも一軒家としては立派な家だったと思う。比較対象が立派な様式住宅なので、小さく見えてしまう。引っ越し当初には無かったが、バス停が近くにできた。玄関を開けると左に居間があり、目の前には扉と二階に続く階段がある。なんせ、広い前の家の荷物をもってきているので、物であふれている感じがする家だ。扉の奥は和室になっており、仏壇があるのだが、父の荷物等であふれていた。階段を登ると部屋が3つある。洋室が2つと和室が1つ。和室は本棚と物であふれており、物置と化している。洋室の1つは子供部屋となっている。引っ越した時には既に兄貴は住んでいなかった。弟と2人で二段ベッドを使っていた。居間には前の家にあったテーブルがある。焦げた跡が懐かしくなるテーブルだ。この家で叔父の作る料理を食べて育った。大学の2年間と大学院の2年間だけで、就職後は寮に移ったので、住んでいた4年間だけの記憶になる。とはいうものの週末はよく実家に帰った。実家が近くにあるというのは、嬉しいことだ。暇になったら実家に帰れば4年しか住んでなくても落ち着くものだ。寮生活の時もよく週末は実家に帰った。俺が家を去ってからは親父と弟と叔父さんの3人暮らしになったが、叔父さんは俺が家を出て数年後に他界した。この家で、離婚した母にも再開した。なんともいえない経験だが、それ以来、母には会っていないし連絡もとっていない。親父と弟の2人暮らしとなった。そんな弟も結婚して、家を建ててこの家を離れた。今では親父一人で住んでいる。俺はこの家を去ってから6度目の家にいる。横浜の上大岡にあった独身寮、川崎の武蔵小杉にあるワンルーム寮、東京の蒲田での一人暮らし、武蔵小杉の借家での2人暮らし、武蔵小杉での持ち家のマンションで自分の家族暮らし、そして、大阪にある借家だ。親父は明大前の自警会であるピースメーカーを勤めた。俺が高校の実験助手をしていた経験に似ているが、明大前の商店街から信頼の熱かった親父が理事を勤めることとなった。そんな親父も今年のがん手術を経て、この職を辞めざるを得なくなった。長年にわたり明大前を守ってきた親父。俺たち兄弟を3人とも一緒に育ててくれた親父。俺はそんな親父を尊敬している。近い将来、親父との別れは来るだろう。そんな覚悟はしなければいけないと思っているが、孫たちのためにも少しでも遠い将来にして欲しいと願っている。俺の家だった話を書きすぎたが、先月は久しぶりに一泊の旅行ができて、旅行記が書けるので、書くことにした。それだけを加えた話。今でも俺の家は愛甲石田にある実家だ。これが俺の家の話。


 2021年3月20日(土)京都1日目
 そうだ京都へ行こう。祝日なのでママさんパート休みです。3人ではなく4人旅。息子の眼鏡修理に梅田のアンファンへ。知り合いの息子さんがモデルやってるパンフレットがありました。大丸でお蕎麦を食べて、約束のネバーランド展へ寄ってから京都へ行きました。関西在住者限定プランでお安くホテルに泊まれました。ウエルカムフルーツもあり、大福食べ放題、ビール飲み放題です。チェックイン後に東本願寺と西本願寺に行って、夕飯は京カレーうどんを食べました。ホテルに戻って温泉入って、夜鳴きそばを食べました。って言えばどこのホテルかわかっちゃいますね笑。。

 2021年3月21日(日)京都2日目
 朝から雨でチェックアウトの11時までホテル引きこもり。朝の温泉に入ってから、朝食のバイキング。期間限定のカニいくら丼のいくらの量が凄い。朝から2杯食べてしまいました。食後も温泉に入り、チェックアウト後はすぐ帰宅。お昼は家でカルボナーラを作りましたが、味が薄くて大失敗。ケッチャッピー入れてなんとか食べられました。昼飯後は雨の中、ケンタッキーとくら寿司の買い出しに行って、夕飯は実家の兄と一緒にじいじの半寿のお祝いをしました。関東の緊急事態宣言が延長してなかったら実家帰省する予定でしたが、ギリギリアウトで宣言中なので自粛しました。今年もAlexaリモートお祝いです。今年こそ帰省して山温できるかと思いましたが、もう2年開催できてません。父や山温のみんなに会いたいです。父は術後、順調に回復しているようです。81歳の誕生日おめでとうございます。

以上('21/4/1)。


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