スマドレとは私の祖父が企業した会社です。今は倒産してしまいましたが、IT企業として復活を企てています(笑)

その人生は太平洋漂流で始まつた


西宇和群三瓶町出身で、現在ニューヨーク・スマドレ化粧品会社極東支社長として活躍している宮内牧太郎(写真)は僅か十八トンの小船で渡米を計画、太平洋を漂流して九死に一生を得るという文字通り波乱万丈の人生を乗りきつた人だがこのほど学童衛生会社社長梶原計国氏から、就職試験シーズンを迎える郷土の青少年の参考になれば、と宮内氏の半生記が本社に送られてきた。



宮内牧太郎氏の半生記(上)

途中で二人は死亡 失敗にめげず再度決行

幾山河苦難の道
 僅か十八トンの漁船を操り、渡米を決行して漂流、九死に一生を得て米国に伴われ、送還後再度の渡米をして、ニューヨークで苦闘、更に帰国して、幾多の波瀾と挫折を遂に乗り切つて成功した人−東京都世田谷区松原町ニノ六五一、ニューヨーク・スマドレ化粧品会社極東支社長宮内牧太郎氏の立志伝は、文字通り七転八起であり頑強な意志と、執ようなねばりと強健な体力が、結合して貫き通した成功である。
 宮内氏の辿つた道は利巧者や、通常人で耐え得ない、非打算的なけわしい道であつた。この人にしても若し意志と、粘りと、体力と、三つのうち、どれか一つが薄弱であつたら、長い苦難の途中で、姿は消え去つていたに違いない。
 日米間を股にかけ、転落してもはい上り、突き当つてもう回し、幾山河、人生の立志の山を踏み越え、谷を渡り、荒野を歩き幾星霜の風雨に耐えて来た体験者宮内氏である。

小船で渡米企つ
 十八才になつた宮内さんは(その頃は松本性であつた)海外立志に燃え、同僚八人と共に十ハトンの小さな漁船に乗つて、渡米を企て太平洋に乗り出した。
 時は一九十四年の盛夏八月のことであつた。行けども行けども、海と空ばかりの世界で、単調と不自由な日が続く。三十日目に大きな鮪を釣つて一同は大はしやっげだつたが、これを食べて中毒を起し、一同枕を並べて床につき、船の運転が不能になつて、この瞬間から漂流が始まつた。
 船は北廻りの黒潮に乗つたが、流れ流れて四十三日目に、微かに島影を遠望した。この間一人は死亡し、七人は島影をアリユウシヤンと誤認しカナダへの方向だと喜んだ。所がそれから間もなく船は泥水に乗り入れたので、ベーリング海峡に入つていることが判明、その後も不気味な北海を西へ向けて走ること数日、船は寒々とした小島の暗礁に乗り上げて砕け、七人の者は命からがら泳いで上陸したのであつた。

北永洋孤島で遭難
 アメリカ合衆国を目指して、わずか十八噸の小船で太平洋に乗り出し、途中から漂流して同士一人を喪いアラスカ最南端のヌニバーグ島沖の岩礁に打ちつけて難破した七人は、デツキの板を筏として島へ上陸した時に一九十四年盛夏八月、それから九ヵ月間島の耐乏生活に入つたのであるが、北国の夏は快適でも冬は早く襲い、住いは勿論食糧難と刺しような寒さの苦しさに、言いようの無い苦しみを味わつた。島を流浪し廻つた一行は、何回も生死の境を越えたが一人だけ行方不明となつた。
 間もなく土着のエスキモー人の助けによつて、辛じて越冬したが翌一九一五年五月になると、アメリカの捕鯨船が来て六人を救助しアメリカ基地UNアラスカへ伴い中の二人は足が凍傷で腐り手術を受けた。六人はこのとき現地のアメリカ官憲へ引渡され、種々手当てを受けた。
 何しろ正規の手続きによらず、密入国に等しいアメリカ行きだつたので、六人は雄図空しく、国際法により送還せられることに決まり、ここ五十三日間滞在後、アラスカ航路によりシアトルに送られ、ここから捕鯨船で横浜へ送還せられてしまつた。時は一九一五年の残暑きびしい八月であつた。

再度の渡米計画
 送還される船中、宮内さんは依然としてアメリカへ渡って働くという希望に燃えていたので、経験のため船長の快諾で缶詰製造を手伝い一日五ドルの日給を貰つた。その頃の五ドルは日本で十円になつたが、十円といえば巡査や小学校教員の月給に相当した。
 一方アメリカでの生活は朝食十仙。昼食十五仙、夜食二十五仙位いで、小遣も加えて一日ニドルあれば凌げた。日本と比較して生活水準も、生活のゆとりも格段の相違であつた。  宮内さんは、第一の計画に失敗したが、帰還の船中で、アメリカの労働体験を得たことにより、再渡米の志望を固め、機会を狙い努力を続けていた。
 幸いに宮内さんの故郷は海外思想の発達した西宇和群下で、早くから豪州へ出稼ぎに行つたり、ハワイやアメリカへも多数渡航してたので間もなく再渡米する機会が来た。


宮内牧太郎氏の半生記(下)

イバラの道乗り切る 誠意に人種差なし

ニューヨークへ
 宮内さんの故郷に近い今治市の知人の今息で、ニューヨーク市でチヤイナウエア(陶器)を売る萩原商会を経営している人があつたので、そこを通じて渡米方を依頼した。  それから「人生至るところ青山あり」の志望に燃える宮内さんは船員となつて神戸から郵船カルカツタ丸に乗り組み、東洋廻りで南米まで行つた。帰つてみるとニューヨークから招聘の手紙がとどいていた。
 大喜した宮内さんは、一九ニ〇年に今度こそ念願かなつて正々堂々と渡米し、萩原商会に五年間勤務した。この間にも色々な変化と労苦があつたが、一九ニ四年に日本に帰つていた萩原社長が帰米し一九ニ五年には化粧品の製造販売会社スマドレが創立されたのを機会にこれに参加した。

倒産会社引き受く
 ところが創業二年にして近藤社長が死亡し、後を整理してみると負債の山で、一方財産は皆無というさんたんたる状態であつた。そこでやむなく解散に決定したが、この時、宮内さんは借金を附けたまま無償で譲受を申出た。金を貰つても嫌な引受けを、宮内さんがやつたことに対してその正気を疑う人すらあつた。
 しかし、商標と体験は宮内さんにとつては誠に貴いもので「化粧品製造に成功するには少く共三十年の苦難が要る」という、固い覚悟がつた。とはいうもののその後の宮内さんは、借金の解決と製造の売り広めには、言うに言われぬ苦労があつた。その間の苦杯とエピソードの体験は紙数がないので詳述できないが、とに角「イバラ」以上の苦しく険しい道であつた。

黒人美容師と提携
 「誠意に人種の差と国境なし」で、宮内さんは、ニグロの美容院に、合理主義と製品の価値が認められ、この方の取引で立ち直つたが、もちろんこれだけでは満足で来ず、日本への輸出を計画し、既に毎月横浜のスマドレ代理人に百二十ダースづつ送つていた。
 この頃、ニューヨークで日米週報を出していた故村岡安男氏(戦時中帰国し、客員として一時二世連合会にも関係した)に川畑文子さん母子を紹介された。
 川畑さんはハワイに生れで昭和八年頃「コロラドの月や」「青空」など、アメリカのジヤズで一蹴日本の第一人者となつたが、それから間もなく母とともに渡米した。
 この川畑さんのお母さんが、スマドレ化粧品に興味をもち、五万円くらい出資して日本で共同で製造することに話が決まり、宮内さんと共に帰国した。所が当時日本は中日戦争に苦しみ、将来の見通しもつかぬ状態なので、出資は中止となつた。然し宮内さんはいつまでも初志を捨てず、永福町の文子母子の物置を借りて、製造を始めた。これが日本に於ける宮内さんの新しい出発であつた。

ついに初志を貫く
 その後、宮内さんの事業には三越本店の理解と応分の支援があり昭和十四年には工場と住所を幡ヶ谷原町に移した。ところが、ここは昭和二十年五月の大空襲に焼けたので、同年七月三十日には、当時焼野原だつた現在の世田谷区松原町ニノ六五一(明大前駅近く)に移り、株式会社スマドレトーキョーを始めた。
 現在ここに工場と立派な洋式住宅を建てて、その製品スマドレ・ヘヤトニツクとシャンプーを全国の大デパート有名化粧品店に出し宣伝なしで最も効果的発展を遂している。(終)

(昭和36年10月24日、25日の新聞より抜粋)



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