生きる意味の話

俺は俺なりに少ない頭をしぼって考えた。俺が生きる意味って何だろう。
俺は俺なりに少ない頭をしぼって考えた。俺が死んだら悲しむ人はいるのだろうか。

後輩が「宮内さんが死んだら僕も死にます。」って言った。多分、冗談だろうけど、少し嬉しかった。でも、もし俺が死んでも生き続けて欲しい。俺は頭が悪い。「修士をストレートで卒業してるんだから、頭悪いなんて言ったら嫌みだよ」と言われたこともあるが、本当に頭が悪い。「頭が悪いヤツは自殺をしない」って言った高校の先生がいたっけ。俺の出身校で自殺をしたヤツはいないそうだ。その悪い頭を使って俺の存在意義を考えた。今まで26年、生きてきたが、人のためになったことはあるのだろうか。人に影響されたことはあっても、影響を与えたことはない。影響を与えることが人の生きる意味なのかと言われたらそれも疑問だが。今のところ、俺が評価する上で俺が、この世の中で必要な人間とは感じなかった。これから先も俺が生きていくうえで意味を感じることができるのか疑問に思う。もし、明日俺がいなくなっても、一時期の違和感だけで、また何も無かったように時間は過ぎていくのだろう。母親代わりだった祖母が死んだとき、俺は悲しみで涙した。その時は涙したけど、10年もたてば声も忘れちまった。そんな風に、身内であっても時間が過ぎれば記憶から抜けていく。記憶を忘れることができるのは人間が、人間であるが上の機能であり、忘れられるから生きていけるのだと思う。それでも、記憶の片隅には残っていたい。残れる人間になりたい。

地球の資源は限られている。俺はただ何となく生きている。
地球の環境は破壊されていく。俺はただ何となく生きている。

前に「宇宙の話」をした時、宇宙のことを考えて欲しいと言ったが、それ以前に大切な地球を考えた。アメリカでは、デニス・リー氏が、常温核融合と常温超電導の謎を解き明かし、空気を介した送電技術も編み出したそうだ。さらに彼は、ニュートンの運動の3法則に続く「第4法則」を発見し、水面を走る自動車や、コンクリートを透視するカメラ、無料電話、そしてパンクしない自転車用空気タイヤなどを可能にする技術を開発したそうだ。「運動の第4法則」とは、すべての作用には等しい反作用がある(ニュートンの第3法則)が、これに加えて、その反作用に対する反作用をもとの作用に加えることができ、そうすればもとの作用の力が倍になるのだそうだ。これが本当であれば、地球資源は無くならない。しかし、おそらくは眉唾ものであり、できたとしても何年かかることか分からない。今は地球資源を大切にして、環境破壊をしないよう一人一人が考えるとしか言えない。自然には「間引き」と言われる口では説明できない作用が発生する。人間も少し増えすぎているのではないだろうか。そろそろ間引きが必要になってきているのかもしれない。もし俺が自然法則を操ることができるのであれば、夢を持たないような、意味のない毎日をただ過ごしている人から間引きの対象にしていくだろう。俺は間引かれるべき人間なのかもしれない。

代わり映えのない毎日が過ぎていく。時間が経つのを早く感じている。
代わり映えのない毎日が過ぎていく。あの日に戻りたいと感じている。

毎日変化を求めて、毎日過ごしているが、毎日同じことを繰り返していると感じている。朝、起きて会社に行きたくないと感じて、会社へ向かう。電車に揺られストレスをためていく。それがサラリーマンだと諦めて毎日を過ごす。時が過ぎるのは速いものだと後ろを振り返った。人には限られた時間がある。その時間を長いと感じるか、短いと感じるかは人それぞれだが、充実させるかことができるか、できないかは自分の問題だ。10月末から5連休をとって、自分を変えようと思った。人は簡単に変わるものじゃない。この5連休は大学の文化祭に入り浸った。学生は輝いていた。若さが痛かった。学生プロレスを見ていたが、一人一人が人を笑わすことに勤め、楽しんでいる。野外舞台で尾崎豊の「クッキー」を歌っていた体育学部の学生上手かった。何かに夢中になっている学生は美しいと思った。誰もが一度は思うことかもしれないが、学生時代に戻りたいと思った。戻りたいと思わないほど、今を充実したいと思った。学生に戻って、誰にも邪魔されず、夢中になれるものを探したかった。俺は周りの目を気にして何もできない人間になった。それを大人とよぶのならば、大人になんてなりたくなかった。文化祭、最終日の花火は秋風の中、自分を考えさせるには、十分に美しく、悲しい光景だった。俺は変われない自分に悲しみを覚えた。

夢を持ちたいと思った。過ぎた時間を後悔した。
夢を追いかけて行きたかった。過ぎた時間を後悔した。

夢を持たない人間が夢をもつ人間を馬鹿にしてはいけない。俺は人を馬鹿にする傾向があるようだ。前回のエッセイで後輩に不評のメールを貰った。たしかに、人を馬鹿にしている文章のようだ。俺は無神経な言葉や、無神経な文章を書くことがある。神経を過敏にしすぎて、いろいろなケースを考えるが、よくない選択をすることが多々ある。自分は冗談のつもりでも、相手を知らず知らず傷つけることがある。へんなプライドをもってるのも確かだ。院卒だからとか、有名企業だからというのを、どこかで自慢したいという気持ちがあるのかもしれない。嫌なヤツだ。それでも俺は俺である以上、俺を好きにならなきゃいけない。夢を持たない俺を好きにならなきゃいけない。俺が大きな夢をもっていれば、俺は俺を好きになれるだろう。1日、1時間、1秒を大切にしない、「ツケ」が、今「後悔」という名前に変わり脳裏にやってくる。夢を持っていないことを後悔している俺は情けない。やり直しは、いつ初めてもいい。歳をとったらやり直してはいけないなんて、誰が決めたんだ。26歳。いつだってやり直せる。1度きりの人生なんだから、やりたい事やったヤツの勝ちだ。やりたいことをやるために、やりたくないことをやることも時には大切だろう。やりたくないことを、ただやり続けることは、間違っていると俺は思ってる。しかし、俺はそんな生き方を続けている。

俺は自分から動かない。刺激を求めているのに争い事を好まない。
俺は自分から動かない。愛されたいのに闘いを求めない。

「ここがへんだよ日本人」というTV番組を見た。湾岸戦争をとりあげていた。毎回、思うことだ。戦争は国と国との争いであり、片方の国の悲惨さをいくらとりあげても、もう片方の国にも悲劇はあるわけだ。罪なき国民は「戦争」という殺し合いでしか、解決できなかった祖国を批判しないのか。戦争は何も生まない。そう教え続けられてきた。本当に、戦争は何も生まないのか。何が悪で、何が正義なのか、考えることを生み出す。戦争をしろとは言ってない。過去の過ちから学べ。過去の過ちを正せ。争い事を好む人間は少ない。俺も争いを好まない。いや、闘うことから逃げ出している。無意味な争いはいけない。時には闘うことも必要だ。時には。本当に愛した人を奪い取るのも愛なのかもしれない。俺にはできなかった。あの時のように人を愛する気持ちに焦がれることはなかった。自分から動こうとはしなかった。誰かが俺を見つけてくれるのを待っていた。本当の愛を手に入れるには、自分が動かなくては勝ち取ることはできない。俺はまだ本当の愛をみつけだせない。ドイツに「どんな鍋にも蓋がある」という諺がある。俺はまだ本当の蓋を見つけていない。偽りの蓋で自分を満足させようとしているかもしれない。寂しい気持ちに嘘をついているのかもしれない。本当の蓋を見つけるために生き続けるのも悪くない。

五体満足に生まれたことが、あたりまえに感じてる。
親がいて、育てられることが、あたりまえに感じている。

仕事の関係で障害者と接する機会があった。世の中は上を見たらきりがないし、下を見てもきりがない。全ては自分が基準だ。世の中は不平等だから成り立ってるのかもしれない。男女平等なんてうたっているが、実際平等になんてなれる訳がない。違う構造なのだから。風呂やトイレは一緒にできない。トイレの女性清掃員が男子便所を清掃しても、男性清掃員が女子便所を清掃することは無い。同じように、障害者が健常者と平等になることは無いだろうし、なれないだろう。人間という枠組では、人は平等で無くてはいけない。しかし、その枠組みを細かくすると不平等は生まれてしまう。不平等の中、大事なのは、相手の気持ちを思い、助け合うことだ。俺は今、手が動くこと、足が動くこと、目が見えること、口がきけること、耳が聞こえること、全てがあたりまえのことだと感じている。俺は今、親がいて、親に育てられることがあたりまえのことだと感じている。どこかで感謝する気持ちを忘れかけている。こうして、自分を考えることができる幸せをあたりまえに思っている。これから結婚をして、子供ができたとき、その子が健常者であるとはいいきれない。障害者が生まれたとき、俺にはその子を包めるほどの包容力はあるのだろうか。この辺を疑問視することが、俺が大人になりきれてない中途半端な位置にいる証拠なのかもしれない。

生まれたことに意味のない人間はいない。その意味に気づくことができるのか。
生まれたことに意味のない人間はいない。その意味をはたせることができるのか。

生まれたことに疑問をもつ人がいるが、人は誰でも生まれたことに意味があるんだ。その意味を見つけるために人は生き続けなくてはいけないんだ。それでも、その意味に気づかず、気づいても果たせぬままに死んでいく人は、いくらでもいるのだろう。自殺という逃げ道を選ぶのは良くないこととわかっているが、その道を選ばざるを得ない気持ちに追いやられる時が来るのかもしれない。「自殺をするほどの勇気はない」と言うことがあるが、自殺は勇気でするものじゃない。それは度胸だろう。死の先に何があるのか分からない恐怖が人を死に結びつけない。人間、死ぬ気になれば何でもできる。死ぬ気になれるほどのことが日常に存在しない。いや、存在しているのかもしれないが、周りを気にして面倒なことから避けようとして生き続けた。死ぬ気になれるほど、夢中になれるものが欲しい。それを果たすのが自分の生きている意味かもしれない。今、親不知を抜いた歯茎が痛い。俺は生きているのだと感じた。生きている以上は、苦しいことや、痛いことに対面する。そこから逃げ出してばかりいては、自分の生きる意味なんて一生、解らないだろう。その意味が解った時、その意味が果たせた時、俺は必要な人間だと感じることができるのだろう。そして、俺は俺を好きになることができるのだろう。俺は俺を好きになるために生き続けていこうと思う('99/11/15)。


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