父親の話

 いつの頃だろうか、母親がいないのがあたりまえだった。多分、物心ついた時には母親はいなかった。それでも寂しいとは感じなかった。僕には2人の兄弟がいて、祖母がいて、叔父がいて、そして父親がいたから。父はいつでもそばにいてくれた。サラリーマンではなく自営業だったので、会いたい時にいつでも会えた。父の仕事はヘアートニックの精製及び卸売りと小物屋をしていた。ヘアートニックは祖父の代から作られ、一時はニューヨークに支店を持つほどだったらしい。店の名前は「スマドレ」。僕はあまり好きな名前ではなく、どことなく恥ずかしかった。そのヘアートニック工場も事務所も家の敷地内にあった。工場といっても従業員はいない。父と叔父、祖母の3人が働いているだけだ。当然、兄弟3人はそのヘアートニック作りを手伝った。ビンを洗ったり、ラベルを張ったり、ダンボールに詰めたり。その時は嫌だなと感じたこともあったが、今ではいい思いでだ。その時の経験が今でも生きていると思う。また、小物屋は主に化粧品やバッグを扱っているのだが、父はゲームウォッチやファミコンソフトを仕入れてきてくれて、プレゼントしてくれた。いろいろな物を仕入れていたので、父親の職業を聞かれるとよく返答に困ったものだ。その店は世田谷の商店街の中にあった。僕は20年間をそこで過ごした。あまり裕福には感じなかったが、貧しくもなく不自由なく暮らせた20年間だった。父は、幼稚園の送り迎えはもちろん、小学校、中学校の父母会にも参加し、授業参観にも積極的に参加してくれた。周りがお母さんばかり来てる中、父親が来ているのは僕だけのことが多かった。父は外見ビシっとしており、年齢より若く見えたので、父親が来るのは恥ずかしくは無かった。むしろ、嬉しかった。さすがに高校になると恥ずかしくて、授業参観に来るのは断った。もっとも、高校生にもなると母親でも断りたくなるが。高校で授業参観するというのもどうかと思った。小学校の授業参観で、母親だらけの中、一人父親が来るということは、結構勇気がいると思う。僕にはできないのではないかと思う。これも父の尊敬できるところだ。家事は父ではなく祖母が担当していた。祖母が作るポークソテーのグレービーは非常に美味しく、ご飯にかけて何杯も食べた記憶がある。祖母は優しく、毎日100円のお小遣いをくれた。当時月3000円もらってるのだから結構贅沢だと思う。毎日、「百円ちょうだい」を兄弟3人が言うわけだ。僕はそのお金を駄菓子屋で使った。は虫類系のゴム人形が当たるクジに使うことが多かった。また、当時キン肉マンが流行っていて、ガチャガチャを一回やって1日が終わることもしばしばあった。3000円ももらってるのに足りないと感じて、サイフから盗んだこともあった。そういう行為はすぐばれる。うちは悪いことをすると必ず「お灸をすえる」ということになっていた。本当のお灸ならいいが、それは線香に火をつけて手の甲につけるという、「焼き入れ」のようなお仕置きだった。今、こうして書くと虐待と言われそうだが、当時はそれで「悪いこと」を知った。そして「悪いことは悪い」と感じることのできる人間になれたと思う。僕は掃除をするのは好きだったので、掃除だけは担当したが、それ以外は全て祖母まかせだった。母親のすることは祖母がしていた、だから僕の母は祖母だったのだが、幼稚園のころトラウマになるような出来事があった。この時は強く「母親がいない」ということを感じた。それは、幼稚園の授業で「お母さんの顔を描こう」というものだった。みんなだんだんと、できあげていく中、僕は全然進まなかった。僕はお母さんである祖母を描こうとするのだが、いくら描こうとしても「おばあちゃん」にしかならない。当たり前のことだが、周りの友達はしわ1つない、「お母さん」という絵を描いてるのを横目に見ると、「おばあちゃん」であることが恥ずかしく思え、クレヨンが進まなかった。お絵かきの時間が終わっても僕一人描き終えることはできなかった。その時やっと先生が気づいたようで、やさしく「先生の顔を描いて。」と言ってくれた。僕は嬉しかった。クレヨンが進んだ。今でもその絵は残ってるいと思う。「ほりかわせんせい」。堀川先生がお母さんだと思うと、僕の「お母さんがいない」という気持ちは無くなったのだろうか、いつも通りの1日を終えることができた。高校生になって初めて正月を迎えた後すぐに祖母は他界した。深夜、祖母は糸が切れたように、独り言をいい、うろうろ歩き出した。それを必死に止めようとする父と叔父。救急車のサイレン。その光景を見た僕はそれほど寒くないのに震えた。病院へかけつけると祖母は危険な状態に。そして祖母の死へと繋がった。真っ白な一日だった。はじめは、人が死ぬってこんなものかと思った。葬式のとき父が言葉につまっているのを見て、祖母との思い出が巡り、涙がでてきた。僕にとっては母親なのだから、涙がでてあたりまえ。こんなに苦労をかけてきたのに恩を返せなかったことが悔しかった。。男は泣くなというが、母親が死ぬときくらい泣いたっていいだろう。祖母が他界してからは世田谷の土地の相続税というものが払えず、引っ越しをやむなくした。父は世田谷に残れるようあの手、この手を考えた。僕が大学2年生になるまでは、なんとか世田谷に残れたが、結局、店を畳むことになった。スマドレは倒産した。その時の父は少々頭が薄くなったように感じた。引っ越し先は愛甲石田という小田急線の本厚木を一駅越えたところにある。愛甲石田は祖母が住んでいた町で、父の従兄弟が近くに住んでおり、祖母の墓も近かった。一軒家ではあるが、環境は今までと全く変わった。今まで、小学校、中学校、高校、大学と20分以内にいける距離であったが、それが駅まで行くのに20分かかってしまう。はじめは辛くてしかたなかったが、次第に慣れてきて、電車の時間も小説を読む時間と割り切った。それでも、引っ越したメリットが欲しかったので、近くにある大学院に通った。高校、大学、大学院の学費はほぼ自分で出したが、生活費は父に工面してもらった部分が多い。会社が倒産した後、父はいくつかの職を経て、親戚の医療関係の仕事を始めた。仕事といってもアルバイト的な扱いであり、給料は厳しい状況だった。それでも、叔父と共に弟の大学の費用、部活動の費用、大学院の費用を工面していた。今の世の中、父親が子供の学費を工面するのは当たり前だと思ってる人たちが多いと思うが、僕はそうとは思わない。たとえ、親であっても自分のこと以外に、人生の一部あるいは全てを犠牲にするのは、大変な決心が必要であり、感謝すべきことだ。祖母は他界してしまったが、僕には叔父がいた。父と叔父という普通ではない家族構成を友達に言うのが恥ずかしく思ったこともあった。もともと料理が得意だったし、祖母を手伝っていたので料理には不満はなかった。特にミートソーススパゲッティーは非常に美味い。叔父ほどのミートソースを作れる店には出会ったことがない。家族みんなが風邪で倒れたとき、仕事もしなくてはいけないし、家事もしなくてはいけない叔父が「母親代わりにはなれない」と言ったのを覚えてる。叔父は叔父だから、母親にはなれないのはあたりまえだ。しかし、僕にとっては母親以上の家族だと思う。僕らは叔父がいることに甘えていた。今思うと、叔父が結婚しなかったのは、僕らに母親がいないからかもしれない。自分のことより僕らのことを先に思ってくれる叔父だ。中学生の頃、友達と自転車ででかけて見知らぬ場所へ行ってしまい、迷子になったことがあった。迷子になったことを電話した後、一度も電話せずに自力で家に戻ることができ、父に会ったら、ひっぱたかれた。普段、ひっぱたく様なことはしない父だっただけに驚いた。痛かったけど嬉しく思った。それだけ、心配していたということだ。それだけ大事に思ってるということだ。ドラマみたいな話だが、本当に感謝している。そんな父も今月の21日で還暦を迎える。弟は赤いベストを買うつもりだったが、みつからなかったのでパーカーを買ったらしい。僕は父が欲しがっていたワープロを買おうと思っている。あまり高すぎるものを買うと叱られてしまいそうだが、父が僕に費やした費用はこんなものじゃないだろう。60年は長い。僕はその人生の約半分をお世話になり、甘えた。これからも迷惑をかけることがあるかもしれない。親より先に死ぬことほどの親不孝は無いというから、僕も健康には十分注意していきたいと思う。だから、父さんも健康に注意して長生きして欲しい。長生きしてもらって、恩を返していきたい。少しづつ、少しづつ。優しい家族がいて僕は幸せだ。('00/3/15)


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