危険思想な話

 地球上の資源は限られている。毎日毎日資源を使っている。資源が作られるスピードより、資源を費やすスピードの方が速い。このまま費やすスピードが衰えなければやがて資源はつきる。地球上には見えないルールが働いているとは考えられないだろうか。地球のバランスを保つためのルール。資源を費やすスピードを止めるには、何をすれば良いのか。その問に対する答えは明白だ。資源を使うものを無くせばよいのだ。資源を使うもの、すなわち人間である。人間は増え続けている。人間が増え続ければ資源を費やすスピードも増え続ける。「食い止めなくてはいけない」そう地球が思う時に自然が猛威を震わす。自然による災害はたくさんあるが、中でも恐ろしいのは「地震」ではないだろうか。人間は本当に無力となる瞬間である。人類は未だ地震を予測することはできない。神戸の震災は記憶に新しいだろう。神の扉は無惨にもたくさんの死傷者を生み出した。実際その光景を目の当たりにすると、まるで怪獣映画の撮影をしているのかのごとく、日常では考えられないものであった。数千という老人が亡くなった。地震は世界各国で起き、数分で多くの死者を生み出している。地球が重みを感じ、不快を感じた時、地球は怒りを表面化するのではないだろうか。地震予知を研究している団体はとかく地球の地核や自然の法則を調べて予測を試みるが、もっと大きな視点で観て、「地球のルール」を調べる必要があるのではないだろうか。次にいわゆる人災の代表とも言うべく「戦争」である。戦争は多くの人を巻き込み、多くの犠牲者を生み出す。今も多くの人が死に続けている。戦争が終わった後も、ばらまかれた地雷による死、ウィルス兵器による死、戦争犯罪に裁かれる死と多くの人が死んでいく。かつて、日本も戦争をしていた時代があった。「戦争=悪」であるとは思わない。小林よしのりの「戦争論」に影響を受けて言っている訳ではないが、「もし日本が戦争をしていなかったら平和だったのか?」という答えに誰も答えられないからだ。「黄色人種は劣等人種である」という定義を真っ向から否定した形、それが日本の行った「戦争」じゃないだろうか。戦争には「民間人を巻き込まない」というルールが存在した。そのルールを犯したのが「原爆」であった。日本は結果、負けた。勝者は裁かれないが、敗戦者は裁かれる。多くの人が死んだ。ルールが存在しない戦いそれが「無差別テロ」である。今年起きたニュースでおそらく1位を飾るであろう、世界貿易センターへの無差別テロ。これこそ非日常の光景であり、映画の1シーンを越える映像が目に入った。そしてこの「テロ」は「報復」という名の戦争へと繋がり、今もなお多くの人が死に至っている。自然の災害と人災を区別して書いたが、人災の原因はいった何だろうか。「人類のエゴが生み出す象徴」とでも言えるだろう。しかし、そのエゴは誰が生み出したのかについて考えて欲しい。これも地球が生み出したものなのでは無いだろうか。「増えすぎている」という地球の信号が大量殺戮者というカリスマを作り出す。ビン・ラディンしかり、サダムフセインしかり、ヒトラーしかり。地球の生み出したカリスマは、その命令のままに減らし続ける。つまり、天災も人災も地球のバランスを保つために生み出されたある種の信号によって引き起こされているのではないだろうか。何が言いたいかと言うと「まびき」である。天災であろうと人災であろうと「死」という一つの結果は一つの起因から生まれる。その仮定がどうあれ最終目標が「死」であれば最初の目的というものがあるはずだ。その大元は「地球のバランスを保て」であり、地球の資源を費やす人間を殺せという信号を生み出しているのでは無いだろうか。この信号は一見、無差別テロのようなルールの無い信号と思われるが、ルールはあると思う。「地球上で必要でない人間を殺せ」というルールと考えたらどうだろうか。地球に必要で無い人間だけが地球によって殺される。つまり、死んだ人は地球に必要とされない人であり、まびきの対象となったということだ。地球に支配された一人類に選択の余地は無い。地球だって宇宙に支配された一惑星なのかもしれない。地球がまびきの対象にならないように僕らは地球を守る必要がある。地球を守ることは数億人の命を救うことであり、その為に数人の犠牲があってもしょうがないことだ('01/12/1)。

・・・で、締めくくったら本当に危険思想の人じゃん。おまえはソードフィッシュのトラボルトかっちゅーの。なんか、「ソード・フィッシュ」と「戦争論2」と「寄生獣」に影響されただけのエッセイって感じだね。ま、とにかく人の命は尊いものだ。例え一人の命であっても犠牲者なんてものは出しては行けない。僕ら一人一人が意識の改革をすることで地球から災害がなくなるのではないかということだ。無駄な浪費を無くし、自然を大切にする。今まで死んでいった人が地球に不要だったという考えも間違えだ。不要だと思われないように生きて欲しいという表現の誇張であり、必要だと思われるために何をするかを考えて欲しいと思った。まずは、人のために何ができるかを考えて欲しい。人を思う気持ちが全ての人に浸透すれば人災は無くなると思う。そして、地球のバランスが取れるようになった時、災害と言われるモノは無くなるのかもしれない('01/12/1)。


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