分岐点の話

 前回のエッセイ、「重すぎ」と大不評を戴きました。そんなわけで今回は明るめに行きたいと思います。といってもまじめな話ね。ちょっと過去を振り返ってみて欲しいのですが、何か大きな分岐点ってありませんでした。「あの時、もしあっちの道を選んでいたらどうなっていたんだろう。」って思うことありますよね。そんな風に思う時ってたいてい、今に満足できてない時じゃないですか。何か嫌なことが起きたり、何かに息詰まったりしたときじゃないですか。もちろん、僕もそんな過去の分岐点を考えることがあります。一番思い当たるのが高校受験ですね。私立の男子校を選ぶか都立の共学を選ぶかの選択肢。思春期というかなんというか、中学の時って女子と話すより、男子でワイワイやってる方が楽しかった。クラスでも男子はほとんど全員と話して仲良かったけど、女子とはほとんど話しをしなかったわけよ。要するに女子ってのを異常に意識してたわけだね。それで何をとちくるったか「友達たくさん作るなら男子校だな。」という選択をしたわけですよ。おれはホモか・・・。入学してみてそれなりに友達はできたけど50人も男がいて、中には怖い退学スレスレの人とかいる中、友達たくさんなんて作れね。男子高のイジメはストレートなんよ。女子校のチクチクイジメも嫌だけど、男子校のストレートイジメはこれまた辛い。別に僕がいじめられてたわけじゃないけど。僕は生まれながらの無駄にでかい体で、今も「学生の頃何やってた?」と必ず聞かれ、その返事に対する言葉が必ず「もったいない」なわけね。だからイジメの対象にはなってなかった。でもいじめられている人を止めるってのが、できないんだよねぇ。なんせ退学スレスレのストレートアッパーていうか、その人、イジメで退学しちゃったし・・・。今思うとそいつもそんなに悪いやつじゃなかったんだよなぁ。止められなかった自分に後悔。そんな男子校生活、女友達はほとんどいなかったね。友達の友達と遊んだりってのはあったりして、まー、男子校はそれなりに面白かったりもしたよ。エロ話とかオープンで話しできるしね。でもさー、あきらかに共学で女の子と知り合った方が青春時代のよい思い出になったに違いないだろう。あの時の俺の馬鹿馬鹿って思うことがあるわけよ。それでも、あの時、もしあの「分岐点」で男子校を選んでなかったら、今いるほとんどの人と出会ってなかったことになるんだよね。実験助手も経験してないだろうし、大学院にもいってなかっただろうね。つまり、今の自分にはなっていなかったわけだよね。やっぱり、共学を選択した自分を覗いてみたいと思うよな。今も高校の授業料を返済している身としては・・・。次に大学受験だね。ここだけの話、推薦で滑ってるんだよね。おいら。高校時代はクラス一位の成績だった。といっても都内随一のアホ高校ですからね。テストも一夜漬け丸暗記でオールクリアーなんで頭の中には何も入ってないんですよ。だもんだから、実際に範囲の決まってない試験を受けると思い出ボロボロ。国立大学の推薦試験は8人くらいの教授の前で物理の試験について説明するわけよ。当時から上がりしょうな私は、やっぱし何言ってるんだか判らない説明をするのでした。物理の内容はマグネットの振り子のおもちゃみたいのあるじゃん。5個くらい玉があって、一番左端の玉を1つ振ると、ぶつかって右端の玉が1つだけ振られるやつ、ってぜんぜん説明できてないね。あれの原理を説明するってわけよ。そのものを説明できないのに原理など説明できるか!んなわけで「不合格」。高校の先生の特別推薦だったのに「不合格」。あれは辛かった。「もし受かってたら」っては「分岐点」と違うので注意。分岐点はあくまでも「ありえる選択」。合格は悲しいかなありえない選択・・・。その後も数校の受験に失敗。路頭に迷った僕は夜間大学を選択。夜間大学なら「学費を払いながら通える」という美学が語れると思ったのだ。上記の通り要は大学落ちた最終選択なんだけどね。「ゴミ問題」という論文と「LOG1はいくつ?」「私は早く起きましたを英語で言って。」という数学+英語+面接のわけのわからん試験でみごと合格。この大学は働くことが前提。僕は仕事が決まってなかったので「家の手伝いをしながら語学を学びたい」ということにしたのです。ここで「分岐点」。もう1つ、「専門学校へ行こう」という道も考えていたわけよ。早稲田なんたらかたらという情報処理系の学校。「俺、早稲田通ってるんだ。」という虚しく悲しいセリフを吐くために・・・。もし専門学校を選んでいたら、俺は今、なんの仕事をしていたのだろう。もう10年前の話だなぁ(遠い目)。大学に入学してから僕はアルバイトをした。最初で最後の普通のアルバイトである。新宿のルミネにある「今半」ってしゃぶしゃぶ屋で働いた。しゃぶしゃぶ食べられるという発送。もちろん、まかないはただの弁当で食べられなかった。その仕事を半年やって世間の厳しさを経験したところで、高校から1本の電話が入った。「実験助手をやらないか?」。そして3年半にわたる実験助手+夜学生活が始まるのでした。大学院へ行くことには迷いは無かった。ここで研究室という分岐点があった。はじめはM研に入ることを希望していたが、結局、その時の卒検を担当していたA研に入った。それはM先生のひとこと「うちの研究はA研とほとんど変わらない」である。もしWelComeだったら、悲しいM研生となっていただろう。M研はK&A研の真向かいにある廃墟的な存在だった。M研で大学院生になっていたら一人寂しく過ごす人生だっただろう。日本に帰化したチュニジア人の友達もできない、ミャンマーの友達も、タイも、アルゼンチンもドミニカも佐渡も。A研でよかった〜。ってどこが、「あの時、もしあっちの道を選んでいたらどうなっていたんだろう。」の話やねん。最後に就職。推薦で今のところに受かる前に1つ一般で入社試験を受けて、一次試験、二次試験、一次面接、二次面接、社長面接とクリアし「君なら歓迎だ、ぜひ来てくれ。」とまで社長に言われて蹴ってるわけです。僕のけじめとしては推薦試験の合格が決まってから断るのではなく、決まる前に断りました。保険は会社に失礼と思ったのです。だったら受けるなって・・・。まー記念試験で受かって業界で働いてる人もいるし・・・。僕が受かった会社は一流企業ではないけど、今やってる仕事より充実していたかもしれない。そんなことをふと思うときがある。長々と僕の経験を書いたわけですが、おさらいすると。「もし共学に行っていたら女性としりあったバラ色人生だったのでは。」「もし専門学校へ行っていたら、専門知識を身につけて素晴らしい会社に就職しいたのでは。」研究室はおいといて、「もし違う会社を選んでいたら、今より充実した会社生活が過ごせていたのでは。」といったとこでしょうか。ここで断言します。「そんなことは絶対にない!」。つまり自分が分岐点で選択したことは常に正しい。もし違う道を選んでいたらその自分は今の自分より劣った自分になっていた。そう思った方が幸せじゃないか。過去の「分岐点」には戻れない。戻れない分岐点に後悔するより今の分岐点を堂々と選ぶそんな生き方をした方が人生は楽しい('02/02/01)。


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