青木先生の話

 先日、ショッキングな出来事がありました。高校時代と実験助手時代の恩師である先生が他界されたのです。38歳という若さでした。交通事故ということであれば不運な話だということになるのですが、悪性リンパ腫いわゆる癌でした。しかも血液の癌ということでいわゆる白血病でした。僕がその話を聞いたのは1月の終わりでした。正月の年賀状には他の先生から「青木先生も大変だ」と言ったことが書いてありましたが、具体的には書いてなかったため、不良学生のいるクラスでも担任しているのかと思っていたのですが、1月の終わりに同じ理科科の先生からメールが入っていました。その内容は「昨年、青木先生が悪性リンパ腫で入院し、12月に退職してしまいました.病気の経過は良いようですが、ドナー待ちのため、やはりこの仕事は無理みたいです.快癒したら復職も考えてもらえるようなので、早く戻ってきてくれる事を心待ちにしている状態です。」という内容です。「一応症状は快癒し、自宅で静養中です。普通の生活を送っているのですが、体力的な事と、いつ再発するかわからない事から、一時退職したものです。今は温泉に行ったり、飲みに歩いたり、悠悠自適の生活のようですので、その点は心配要りません.今度青木先生を呼んで、こちらで一杯飲む予定なので、その時は連絡します.」とも書いてあり、連絡を待っていました。しかし、その後のメールで、「悠悠自適の生活に入られたはずだったのですが、2月の初めにまた病気が再発し、再入院となりました.さほど心配はいらないようですが、残念ながら飲み会はなくなってしまいました.」という連絡が入りました。早くよくなることを祈るだけで病院には行きませんでしたが、11月中旬に最後の報告メールが来てしまったわけです。タイトルは「残念なお知らせ」でした。ちょっと嫌な予感がして震えました。残念ながら予想は的中です。そこにはお通夜の情報と告別式の情報が入っていました。。。青木先生と初めて出会ったのは僕が高校2年生の時でした。いわゆる新米教師という奴です。青木先生には化学を1年間教わっただけでした。初めの頃はノートを黒板に写すという授業スタイルでした。当時はさすが新米教師、写してるだけかよとか思いましたが、今思えば担当クラス全部に板書しては消していくというのもかなり大変な作業だったと思います。高校を卒業して半年後に理科の実験助手として同じ高校で働くことになり、青木先生に再会しました。青木先生は優しい先生で、もちろん僕のことは覚えておりましたし、不慣れな実験助手の仕事も優しく教えてくれました。歓迎会はしゃぶしゃぶ食べ放題でした。この店は青木先生に何度か連れていってもらいました。よく食べる先生で、食事やお菓子をおごってもらったりしいたので、3年半の実験助手生活でかなり太ってしまいました。途中、頭が薄くなってきたからと坊主頭にして、その髪型がずっと続きました。柔道部の顧問をしており、柔道着姿でいることも多かったです。僕が働いている間に車の免許も取得してタウンエースを購入し車通勤をしていたと記憶しています。週末はお父さんをいろいろなところへ連れていっていたそうです。4年間の夜間大学生活が終わり、3年半の実験助手生活が終わりました。青木先生とはここには書けないような思い出もあります。一緒に理科室にも泊まりました。理科室の冷たいテーブルの上で寝たのも鮮明に覚えています。僕が実験助手を辞める時に先生方のイラストをコンピュータで書いて贈りました。あまり旨い絵ではありませんが、青木先生がその絵の中心になっていることも僕の気持ちの表れです。早いものであれから、9年近くがたちました。大学を卒業して大学院に進んでから大学院在学中に高校の定期演奏会を聞ききに行きました。その時に一度、青木先生にお会いしました。もちろん、相変わらず元気な姿です。少し離れた演奏会場でしたが、車で送ってくれました。それが、青木先生と話をした最後になってしまったわけです。大学院を卒業してから大手企業に就職しましたが、技術者になるという僕の希望からは離れた職に就いてしまったため、応援をしてくれた高校の先生方に顔を出すのが恥ずかしくなってしまったのです。今思えば、そんなことを気にせず、理科室に顔を出しておけばよかったと思います。社会人7年目となり、まだ希望の職とは言えませんが、少し技術よりの仕事に移ったので顔を出してもいいかなと思っていたところに訃報が来たわけです。丁度、高校のホームページを見て、「懐かしいなー、校舎もこんなに変わったんだ、あの先生まだ部活の顧問やってるんだなー、あれ、あの先生辞めちゃったのかなー」とか思っていたところに残念なお知らせのメールが来たわけです。僕の頭の中に浮かぶのは元気な青木先生の姿だけです。本当に信じられません。平日で仕事がありましたが、一時的に仕事を抜け出して通夜に参加することにしました。通夜、当日はやや遅れて行ったのですが、町屋にある葬儀場には既に長い列ができていました。先生ですので予想はしていましたが生徒の長い列です。泣いている女生徒もいます。青木先生が学校を辞めてまだ浅いので現役の学生がいっぱいいます。同窓会の連絡網で知ったのか、卒業生も沢山います。柔道部の卒業生もいるようです。1時間以上が経ち、ようやく焼香ができます。額縁の写真は僕の知っている元気な青木先生でした。親族に一例をして焼香を済ませ、3Fの待合室に顔を出しました。懐かしい先生が何人か集まっています。僕のことは忘れられているのではないかと不安もありましたが、皆、覚えていたようです。青木先生を偲んで献杯をしました。さすが先生たちですので思い出を語るのがうまいというか、暗い気持ちにはならない聞き心地の良い会話です。最後に故人の顔を拝む機会がありました。見るべきか悩みましたが、これが最後なので拝見することとしました。顔を見る限りでは、最後は苦しまなかったのだと思いました。38歳というあまりに短い人生でしたが、青木先生は自分の人生をどう思ったのでしょうか。親より先に死ぬことほどの親不孝はないと言いますから、親孝行の先生としては後悔をしているかもしれません。しかし、通夜の長蛇を見ると太く短い人生を送ったのだと実感しました。青木先生の人生に比べたら僕は何もない細い生き方をしていると感じます。もし僕の通夜が開かれたら何人が並ぶでしょうか。僕の好きな漫画に井上雄彦の「リアル」というものがあります。単行本は年に1冊しかでないのですが、毎回、泣ける話がかかれています。障害者バスケをテーマにしている漫画です。その中でヤマというキャラクターがいます。ヤマはだんだんと体が動かなくなり死んでしまう病気です。その中で「怖くないの?」という問いかけに「そんなことばかり考えていたら何のために生きてきたのかわかんないじゃないか」というセリフがあります。人には寿命があります。そのことに悩んで生きていたらせっかくの人生がもったいないということです。青木先生も自分の寿命が38歳なんてことは思ってはいなかったでしょう。それでも、短い寿命の中で多くの生徒を育て、その一人一人の心に生き残っていると思います。もちろん、僕の中にも生き続けています。青木先生のご冥福をお祈りいたします('04/12/1)。


僕が実験助手を辞めた時に先生方に贈ったイラスト

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